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神社・仏閣

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鳥居

はちおうじじんじゃ
八王子神社

式内社で常世岐姫神社といったが地元では八王子神社として親しまれている。 古記録によれば宝亀七年(七七六)の夏河内國大県郡の人正六位上、赤染人足ら十三人に常世岐の姓を与えたという。 この赤染とは茜染のことでこのあたりの人々が茜染めをやっていたことがわかりこの人々の祖神を祭ったものであろう。 今は安産の神として名高い。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

社殿

はっとりがわはちまんぐう
服部川八幡宮

御祭神:誉田別令(応神天皇)  菅原道真公
由緒:江戸時代以来、服部川村の氏神として八幡宮、八幡社といわれて崇拝された。淀藩領高安郡寺社帳によると、当社は正八幡宮とあり、相殿に天神社を祭る。境内に無本寺の西光寺(西迎寺)があった。拝殿前の狛犬には、「巳亥天保十年十一月吉日」の銘があり、この年に奉納されている。明治七年三月二八日、高安郡神立村の玉祖神社に合祀された。その後、明治二十五年三月三十一日、旧社地に社殿を造って、四月三十一日夜、正遷宮を行い、祭った。しかし形式的には玉祖神社に合祀された状態であったが、太平洋戦争後まもなく分離独立し、現在地に遷座した。境内のくすのき、むくのき、あきにれは、八尾市の保全樹木に指定されている。【出典:説明石板』(稲田正春・飯田信一・飯田光治・川村喜代次・乾秀夫・宮崎利彦、1998年)】

正門

ほうぞうじ
法蔵寺

大覚山と号し、曹洞宗に属す。 本尊は聖観世音菩薩である。寛延元年(一七四八)、土佐の長曽我部の子孫である好山和尚きたりてこの寺を建立した。本堂前の大覚山の扁額はその筆である。又、本堂には、沈氏の流れをくむ狩野得水による雄渾な龍の絵が天井に広がっている。 境内地には、神霊泉が湧き、八尾の豪商石田利清(環山楼主)をはじめその一族の墓碑がある。付近には古墳多く、山門前を東方に上ると、好山和尚の墓と言われる清涼塔がある この墓碑の下には両袖式横穴石室をもつ全長十四メートルもある後期の古墳がある。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

本殿

ほうでんじんじゃ
寶殿神社

当社は、室町時代河内守護職であった畠山氏の小山砦から鬼門の位置にあったので、その守護神として創建されたと伝えられ、沼の産土神である。本殿は一間社流造で覆屋内に鎮座し江戸時代初期のもので、市内に残存する古い建築様式の一つであり同時代のものと考えられる珍らしい木造狛犬二対も保存されている。またこの付近は宝永年間の大和川付替え工事のときその川筋に当っていたが村民が一致協力して村と神社を護った。それ故に現在もこの付近は千両まがりと呼ばれている。【『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会、1986年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

みそやじんじゃ
三十八神社

大字福万寺村社にして東西十五間三尺六寸、南北十八間、面積二百八十一坪大字の北方にあり、天照大神、八幡大神、春日大神を祭る旧福萬寺の鎮守なり。往昔佐々木某あり、福万寺に居る文和の頃去て美濃國安八郡に移住す、因て其舘址に就き更に此社を修営す(元禄十六年癸未十二月祠堂再修の願書に曰く當村氏神三十八社明神の境内往古よりの宮除地にて御座候処云々)明治五季壬申八月廃せられ、地は官林となし祠堂旧に仍て存置す、同十二年十月三十一日村民の請願により復旧の許可あり白幣御挿入にして古は境内より北方にありて、東西八間、南北十五間、面積百三十坪あり、明治五年壬申八月廃せられて現今芝地となり【出典:『大阪府中河内郡三野郷村史誌』(大正元年(1912)12月31日調整)より抜粋】

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