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神社・仏閣

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鳥居

ゆぎじんじゃ
由義神社

由義神社由来
 由義神社は 由義宮(西の京)に、神護景雲(じんごけいうん)三年(七六九)稱徳(しょうとく)天皇たびたびこの地に行幸され、その宮域は若江、大縣、高安三郡にまたがる広域の中心由緒深い宮跡に、広大な氏地と氏子により崇敬(すうけい)の精神をもって造営され、その規模、格式共に近隣に比をみない堀を巡らし、森をようした荘厳(そうごん)な式内河内五社の一社である立派な旧社であったが、中世たび重なる兵火により焼失し、住民も亦(また)諸方に分かれたが、江戸時代、貞享(じょうきょう)三年(一六八七)氏地に天然水害多く、氏子は霊験(れいけん)あらたかな祭神素盞鳴命(すさのおのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀(まつ)り、神社を再建して由義神社と稱す。三〇〇坪余の境内に本殿幣殿(へいでん)拜殿絵馬所(えましょ)を存し 末社(まつしゃ)に皇大神社を祀(まつ)り氏地は八尾木中田にして、夏祭は七月二十日 秋祭は十月二十日である。神社は以来文化三年(一八〇七年)明治八年、明治三十九年、大正十三年と改修された。このたび多額の浄財寄進(じょうざいきしん)により、老朽(ろうきゅう)著しい本殿、幣殿、拜殿、絵馬所、鳥居、御手洗所(みたらいしょ)、狛犬(こまいぬ)その他附帯改修工事を完了し、末ながく氏地氏子の家運隆昌、五穀豊穣、災害防除(かうんりゅうしょう、ごこくほうじょう、さいがいぼうじょ)を祈願する産土神(うぶすながみ)であり、氏神である由緒を茲に記(しる)す。 【出典:『由義神社由来石板』(由義神社改修委員会、1983年)】

鳥居

ゆげじんじゃ(ひがしゆげ)
弓削神社(東弓削)

弓削氏の祖神である天日鷲翔矢命と物部氏の祖神の彌加布都神、
比古佐自布都神の二座をまつる延喜式内社で、河内国でも枚岡、恩智社に次ぐ三指に数えられた大社であった。弓削氏は河内国若江郡弓削郷を本貫とする豪族で、弓矢などの武器の製作にたずさわる弓削部を率いた伴造であった。この一族から物部守屋や孝謙女帝に仕え、その信任を得た弓削道鏡を輩出した。「続日本紀」の伝える女帝ゆかりの西の京址や弓削寺址も附近にあり、歴史的に由緒深い地域である。なお本社殿は、もと東方三百メートルの小字・古宮にあったといわれている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

鳥居

ゆげじんじゃ(ゆげ)
弓削神社(弓削)

式内社で、祭神は物部氏の祖神である饒速日命、宇麻志麻治命をまつり、物部氏に属した弓削一族の本拠であった。 孝謙天皇の信頼を得た弓削道鏡は、この地の出身で、由義宮に天皇の行幸を仰ぎ、同宮を「西京」とした。さらに道鏡は弓削一族の栄進をはかったが、天皇の没後は失脚し下野国薬師寺別当として放遂された。 古く、この境内には長寿を保つと伝える「延命水」という井戸がある。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

正門

らいおんじ
来恩寺

①当山の縁起は、現在の地に江戸中期より来福寺として小さなお堂があったところで、1906年(明治39年)に、現在地より東南200メートル生駒山系の中腹にあった恩覚寺と合併し、以来、来恩寺と称するようになった。来恩寺(融通念仏宗)としての歴史は100年足らずだが、来福寺(浄土宗)、恩覚寺(真言宗)の合併の名残として、本尊の観音菩薩像の脇にそれぞれ、阿弥陀菩薩と弘法大師像が安置されている。また、元の観音像は移転の際、傷みがひどく現在は本堂に安置されず、新しい観音像と観音画像を祀られている。【『一心寺来恩寺H.P』より抜粋】

②来恩寺前の街道すぐ西に、自然石のままの「目ナシ地蔵」がある。一説に恩智城の見付石といわれている。今はここに地蔵としてまつられている。また、その西(恩智街道・東高野街道交差点側)に恩智神社石鳥居がある。(【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)を参考】

来迎寺 墓地全景

らいごうじ
来迎寺

聖衆山護念院来迎寺といい、浄土宗で阿弥陀如来を本尊とする。 本寺の創建年月は詳らかではないが、江戸の初期と思われる。宝永六(一七〇九)年当寺中興の祖の筆という「開基由来記」によると、信心深い老母に孝養を尽くす為に草庵を結んだのが、その始めといわれる。寺号のいわれは、近くにその昔行基菩薩により開かれた来迎井という井戸の跡があり、そこから来迎寺と称された。 付近一帯は、高安山古墳群で境内にも奥行七メートルもある塚があり、その石組は代表的なもの また北側の山の傾斜地には家型石棺の入っていた横穴式円墳がある。 境内から眺めはよく、晴れた日には六甲の山、大阪湾が見える。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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