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境内

ぜんこうじ
善光寺

不断山善光寺と称し一光三尊の阿弥陀如来を本尊とする。元善光寺ともいい、本田善光が難波の堀江に於いて仏像を感得し、信濃へ帰る途中ここに一泊し、まずその分身をまつり庵をたて翌年再び訪れて当寺を建立したものと伝える。 境内には府天然記念物の大樟樹があり不断梅、信濃柿とともに三名木としてその由緒を語るものがある。 毎年四月、九月の十六日には盛大なお通夜行事が行われ翌朝ご本尊の開帳がある。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】
  
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

門前

ぜんりゅうじ
善立寺

浄土真宗本願寺派の寺院である。江戸時代、八尾木村総道場善立寺といった。寛延2年(1749)ころ、八尾木村の木綿屋利右衛門の娘おしもという人がいて、大変信仰の厚い人ということで、「妙好伝」(1842)という浄土真宗の信者の伝記に載るという。天文22年(1553)3月10日、京都の公家三条西公条は、信貴山から八尾木の金剛蓮華寺に詣で、村人からここ八尾というところは鶯の名所で、普通12枚重ねの尾がここは8枚重ねで優れているよしを聞いた。(吉野詣記)。 この金剛蓮華寺は、善立寺の付近、小字の地名に大門、堂の前、婆々泣(ばばなき)、焼垣内(やきかいと)などがあり、この付近にあったのではないかと考えられている。 【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室・八尾市郷土文化研究会、1998年)より抜粋】

正門

だいしょうしょうぐんじ
大聖勝軍寺

椋樹山大聖勝軍寺と称し、高野山真言宗に属し、叡福寺(太子町)に対して「下の太子」という。 聖徳太子は物部守屋を滅ぼすにあたり、四天王に祈願、その加護によりいくさに勝つたので、この寺を建てたという。  明治二十一年(一八八八)の台風で本堂(地蔵堂)が倒壊し、昭和四十六年復興が計画、旧太子殿の背後に新太子殿が建った。  本尊は如意輪観音(府重要文化財)で寺宝も多い。門前に守屋池、付近には鎬矢塚、弓代塚、龍華出張所前には物部守屋大連墳がある。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

正面からの山門

だいしんじ(やおごぼう)
大信寺(八尾御坊)

真宗東本願寺の別院、慶長一一年(一六〇六)久宝寺村の森本七郎兵衛貞治ら一七人衆は、東西本願寺の分立にさいし、東本願寺教如上人に属したため、村を出て八尾庄四町四方の地を与えられて移住、 八尾御坊を建立、寺内町をつくり、八尾発展の基を開いた。 万治三年(一六六〇)現地に移建 天明八年(一七八八)京都の本山が焼けたときは、この本堂を移して仮御影堂に代え、一〇年後再びかえされ旧に復した。 昭和二八年三月三日突如本堂の棟がくずれ、その後いまのような全面改修となった。境内には河内県庁跡があり、お逮夜市でにぎあう。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

正門

だいつうじ
大通寺

徳宝山と号し、融通念佛宗、大念佛寺末にして阿弥陀如耒を本尊とする。境内に建つ六字名号板碑は、近松門左衛門作の浄瑠璃 曽根崎心中で有名なお初、徳兵衛の墓碑で俗に夫婦塚 又は縁つなぎの墓といわれている。また門前の地蔵堂内に祀られる子安地蔵には、正和二年癸丑の紀年銘があり鎌倉時代末期の造立で傍らの矢髙地蔵はもう少し後期のものである。ともに八尾市内では貴重な石造遺品である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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