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正面

じがんじ
慈願寺

福井山と号し、真宗東本願寺末。開基は親鸞聖人直弟二十四輩のうち第十三番信願房法心(俗名那須肥前守資材)といい、聖人の関東布教のさい帰依した。法心は下野国に慈願寺を建てたが後京都に上り、弘安三年(一二八〇)遺名により久宝寺村に来り慈願寺を建て、文明二年(一四七〇)蓮如上人久宝寺布教のさいは、久宝寺に顕証寺が設けられ東大阪の真宗弘布の中心となった。慶長一一年(一六〇六)東本願寺につき、森本行誓ら一七人衆と八尾に移り、院家として八尾御坊大信寺の役寺となった。親鸞聖人絵伝など寺宝が多い。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

鳥居

しぶかわじんじゃ
渋川神社

式内社で天忍穂耳命・饒速日命をまつる。もとは長瀬川の東岸にあったが、天文二年(一五三三)の大洪水で流失、元亀三年(一五七二)現地へ移されたという。 この地一帯は、物部氏の住地でこの社は古くは竜華寺の鎮守であったという。鳥居前の観音堂はむかしの宮寺の一部で、境内にある樹齢一千年という大樟樹は、玉祖神社(神立)善光寺(垣内)のそれとともに大阪府指定の天然記念物である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

鳥居

しぶかわはいじあと
渋川廃寺址

渋川天神社は素盞嗚命、菅原道真を祀る古社である。神社の南西の地は、白鳳時代に渋川寺のあったところで、昭和十年ごろ国鉄の竜華操車場を開設工事のとき、多数の単弁八葉や忍冬唐草紋の瓦及び塔心礎が出土した。また一説にはこの附近は物部守屋の別業の地でそこに渋川寺があったともいわれている。仏教崇拝抗争や古代の仏教を再検討すべき課題を提起している寺址である。 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、1987年)】(石板の裏面が見えず、出典者等確認出来ず)

常光寺山門

じょうこうじ
常光寺

臨済宗南禅寺末で「八尾の地蔵さん」で名高い。行基の創建で聖武天皇の勅願所であった。南北朝の戦乱で焼失したが又五郎大夫藤原盛継が再興した。足利義満が参詣し、造営の材料を寄進し額を書いた。 大阪(坂)夏の陣には金地院崇伝の抱え寺として保護され、藤堂高虎はこの寺の縁側で敵の首実検をし、今でも血天井として残されている。 寺宝も多く家光以降の歴代将軍の朱印状がある。八月二十三日、二十四日の地蔵盆は名高く、河内音頭による盆踊りは河内の名物である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

正門

じょうらくじ
常楽寺

当寺の開基は不明であるが、南北朝の時代(14世紀中頃~末)には阿彌陀如来を本尊とする念仏聖の道場となっていたようである。元文年間(1532~54年)に観音菩薩の篤信者持兵衛なる者の寄進による十一面観世音菩薩は霊験あらたかで往昔より近在の人々の崇拝を集め、俗に川辺観音と呼ばれている。1689年(元禄2年)念誉上人により旧本堂が再建され、その後、融通念仏宗、平野の大念仏寺の末寺となり、現在に至っている。【『蓮台山 常楽寺』より抜粋】

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