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楽音寺墓地

がくおんじぼち いたひ
楽音寺墓地 板碑

板碑:花崗岩製。総高94㎝、幅40㎝程の船形をした石の表面に、大きい宝篋印塔形を薄肉彫している。基礎部の堅枠に、元亀元年9月19日、阿闍梨実盛の陰刻がある。西暦1570年の造立である。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

立石越・おと越道標

たていしごえ・おとごえどうひょう
立石越・おと越道標

八尾・山本からきた道は、中高安小学校のところで、二本の山越え道となる。服部川の上を越えるのが立石越道、大窪の上を越えるのがおと越道である。小学校正門前の道標は、天保11年9月に服部川村の観音講同行の人々が、西国三十三カ所参りを祈願して建てたもので、「右、信貴山立石」、「左、おうとごえ」となっている。おと越はおうと越ともいわれている。おと、おうと、おうとうを地名とすると、平群郡信貴畑の大戸山が関係しよう。おと越道標は、この近くではここから北東に道をとり、新道から大窪へ入るところに1本、大窪から神立へ行く道からおと越道への岐れ道に一本がある。初めが文化3年のもの、次が「左、おうとごえ」、次が天保15年3月のもので、「右、おうとごえ道、ほうりゅうじ」、「左、八尾平野道」とある。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

地蔵堂

ろっかじぞう
六カ地蔵

六ヶ地蔵尊の由来:現在地は八尾市刑部二丁目一番地です。この御堂のある土地は小字茶之前と呼ばれています。北側の道は信貴山へ通ずる昔の道です。東側は旧大和川(玉櫛川)の西提でその堤下にあたります。地蔵尊の石材は古墳時代に造られた石棺の蓋を利用しています。地蔵尊の造られた時代は不明です。棺蓋は突起のない中形の刳抜式の家型石棺に属します。増田一裕氏の研究によれば七世紀中頃(六二五~六五〇)に造られたものとされています。岩室は淡灰緑色の流紋岩質凝灰岩で播磨国(姫路市から三田市)に分布する流紋岩質溶結凝灰岩の一部に似ています。古墳時代の後期に豪族を葬るために造られた石棺が時が流れ古墳も壊れ人目につくようになったのでしょう。平安時代の末から各地に石仏信仰が始まります。この地は刑部千軒といわれた時代に村の端に建てられたと思います。刑部千軒の遺物を示すものとしては昭和十七年に干害用井戸掘り工事の時地蔵尊の東 旧大和川から飲料水を取入れたと考えられる竹管が発見されています。昔から茶之前の地蔵さんと愛称され子供の霊を守り病気を救い村内に疫病の侵入を防ぎ道行く人々の安全をお守り下さるということでお詣りも大変多くありました。【出典:『説明石板』(八尾市市史編纂室室長 三上幸寿、大阪府立八尾高等学校教諭 棚橋利光、橿原考古学研究所所員 奥田尚、1980年)】

芳沢あやめ墓碑

よしざわあやめぼひ
芳沢あやめ墓碑

芳沢あやめは、五代を数える江戸時代の歌舞伎役者である。初代芳沢あやめは、歌舞伎の女形芸を大成した江戸時代、元禄期の代表的歌舞伎役者である。このたび、本照寺の境内から二代目、三代目、五代目の墓碑が発見された。向かって右側が二代目の、左側が三代目、五代目の墓碑である。当寺は昭和四十三年以前は大阪市の谷町にあった寺院であり、芳沢あやめ家の菩提寺である。江戸時代の歌舞伎役者の墓碑が確認された例はあまりない。今回確認された二基の墓碑は、近世の芸能史を考える上で、大変貴重なものである。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、2003年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

地蔵堂

しゅみいじぞう
シュミイ地蔵

名前の由来はわからないが、地元恩智の有志が結集して菩提追善のため、彼岸の中日に建立したものである。高さ一三六センチメートル、幅六七センチメートル材質は花崗岩である。像の左右に次の銘文がようやく読みとれる。良盛長盛道梁妙見也阿常助宗 父道善宗恩道明為脩門 道妙□阿妙法 天文十三年甲辰八月時正 河内国恩智□逆修一結衆 敬白【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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