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灯籠

こんぴらとうろう
金毘羅灯籠

常夜灯として夜道の安全を守り、人々に親しまれてきた灯籠です。かつては、植松村の東口にあったものといわれ、のちに奈良街道沿いの仲之町(現在の植松6丁目)にあったものを移設しました。灯籠の一番上の笠の部分は櫓形をしており、灯りをともす火袋の台になる中台には「金毘羅大権現」、柱の部分の竿には「常夜灯」、「寛政十一年己未歳十月吉日」、「発起人 絹屋佐兵衛」の文字があります。この灯籠が、寛政11年(1799)に、金刀比羅宮(香川県仲多度郡琴平町)に参拝した記念に建てられたことがわかりなす。江戸時代は、自由に旅に出ることができませんでしたが、寺社の参拝なら許され、金毘羅参りや伊勢神宮へのおかげ参りが盛んに行われました。江戸時代の人々の信仰を考える上でも、貴重な文化財です。出典:【『ステンレス製説明板』(旧植田家庭・灯籠横)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

石板

にしむらいちろうえもんしょうとくひ
西村市郎右衛門頌徳碑

宝永元年(一七〇四)の大和川の付替えで、旧大和川流域の灌漑用水が乏しくなったため、流域の村々は新大和川から井路川へ水をひくことを請願しましたが、許可される前に大旱にあい、農民は困苦にあえいだ。このため弓削村の庄屋西村市郎右衛門は、幕府の許可を待たずに二つの樋を開いて農民を救った。捕えられ大阪城中で客死、家財没収一家は断絶となった。志紀、大正地区では、旧盆のころ「功念仏踊」を踊ったが、これは市郎右衛門の霊を慰めるためという。大正五年顕彰碑が建てられたが、外環状線道路工事のため、昭和四十五年九月現地へ移された。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

地碑

すみともかいしょあととやまもとしょうがっこう
住友会所跡と山本小学校

住友会所跡 この地は大和川付替後、宝永五年(1708年)玉串川河川敷に生まれた山本新田を経営管理した会所跡である。 享保八年(1723年)より住友氏が所有し、その後約二百二十年間を経て昭和十五年(1940年)に至り山本八幡宮更に八尾市に寄贈され現在に至った。この間明治六年(1873年)山本小学校の前身、河内第四一番小学もここに創設され、常に河内山本発展の原点であった。【出典・不明】

 山本新田について
 この地は、大和川付替え後、宝永五年(1708年)に玉串川河川敷に帯状に開かれた山本新田のあつたところです。山本の地名の由来は、この新田開発を請け負った泉州箱作村の山中善兵衛とその子庄兵衛、および協力者の大阪平野の本山(加賀屋)弥衛門重英の名前の一字ずつをとって名付けられたといわれています。  その後享保十三年(1728年)に、この地は加賀屋から大阪長堀の泉屋吉衛門(住友)に移り、同氏は現在の近鉄大阪線の延伸とともに始められた住宅開発によって分譲されるまでの約200年間、この地を所有していました。
 ここから東南約300m の距離にある市立労働会館は、この新田を経営管理した住友会所の置かれていたところで、同所には現在の山本小学校の前身である河内第四十一番小学も設けられていました。 市立労働会館の敷地内には記念碑も設置されています。【出典・不明)

八尾木不動明王

よおぎふどうみょうおう
八尾木不動明王

宝永元年(一七〇四)五代将軍徳川綱吉の治世、この地方を水害から護るため、大和川の付け替え工事が行われた。そのとき出土した石材を村人が持ち帰り、由義神社の北の小川に橋として使っていた。
 ある日、農耕用の牛がこの橋を渡るのを嫌がったので不思議に思い、よく調べると石材に不動尊像の刻まれているのに気が付いた。さっそく村に持ち帰り、この地に堂を建立し祀ったのがこの八尾木不動明王である。
 以来、諸願成就・眼病・その他難病治癒に霊験あらたかで、近在諸郷の多くの人々の信仰を集めてきた。
 また、大祭日の八月二十八日に五穀豊穣を祈願して作られる「作り物」は、寛政年間(一七九〇)頃から始まったもので、農作物を主に使い、その伝統は、八尾の郷土文化として現在まで続き、高い評価を受けている。
 ここに謹んで八尾木不動明王の由来を記し後世に伝えるものである。
【出典:『八尾木不動明王由来 説明板』(八尾木不動講・寄贈者:辻工務店、1991年)】

説明板

しぎばしのせきざい
信貴橋の石材

「信貴橋 文化十三子正月 石細工 服部川 小右エ門」

江戸時代後期、文化13年(1816年)に造られた石橋の「主(しゅ)げた」の部材です。銘文に「信貴橋」と記されていることから、江戸時代から信貴山への参詣道である信貴道(しぎみち)にあった橋と考えられます。ここから南200mの位置に、現在、恩智川に架かる「信貴之橋」があることから、この付近に架けられていた石橋の可能性があります。
またこの石材には、石工(いしく)の名前が記されていることから、当寺、服部川村に石工職人がいたことがわかります。
 信貴橋の石材は、市内に残された数少ない石橋の歴史を知る資料として、貴重な文化財です。
【出典:『ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会、2010年)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

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