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慶春五輪塔

けいしゅんごりんとう
慶春五輪塔

昭和二十七年六月 大阪-八尾線道路改修のさい、字樋上から出土したものである。この地は久宝寺寺内町の今口門のあったところである。材質は花崗岩で、五輪塔の高さ六五センチメートル 地輪正面には明応二年癸丑 慶春禅門 四月二十二日 と刻まれており、その年号から推して正覚寺合戦のさいの戦死者の墓ではなかろうか。大阪(坂)夏の陣のさい、激戦のあったところで、東軍は東口と、この今口両道から久宝寺へ攻め入った。 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

たかじぞう
多嘉地蔵

もとは廃西方寺の地蔵で、この地の東方、小宇京良塚を通る立石街道沿いにあったという。材質は花崗岩で、総高二、一四メートル、身丈一、六五メートルの厚肉彫の端正な立像である。左右に南無阿弥陀佛文明三年辛卯十 一月□日 八尾西方寺福舎院 住金剛佛子高範と陰刻されていて、市内有数の石仏である。高地蔵、タカ地蔵とも書く。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石板

あぶらかけじぞう
油掛地蔵

古くこのあたりは、真観寺の敷地で、住持がこの地蔵を堺からここまで運んだが、ここで動かなくなったという。材質は花崗岩で高さ一一六センチメートル 右に爲□□寛尊大徳建立 左に文明十三年辛丑十二月十八日とある。仏身全体がまっ黒なのは油をそそいで願いをかけると効験があるというのでこの名がある。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石板

だいもんじぞう
大門地蔵

もとは旧大和川いまの長瀬川右岸にあった龍華寺の大門に建てられていたが、いつの頃かこの地に移されたものと伝えられる。尊像の材質は花崗岩で、仏頭は欠けている。現存高一二六センチメートル鎌倉時代の優品である。龍華寺には、神護景雲三年(七六九)十月称徳天皇が参詣され塩、綿の施入があった。現在の安中小学校の西南に大門の唐居敷という礎石があったがいまはない。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石板

いいだただひこきゅうせいちあと
飯田忠彦旧棲地址

八尾の地十三ケ村の大庄屋飯田家の屋敷址である。忠彦(一七九八-一八六〇)は徳山藩士生田兼門の二男で、縁あって飯田家の養子となった。非常な読書家で、二階で読書に耽ったところから二階先生と呼ばれた。若くして、「大日本史」を読んで発奮、勤王の志厚く、有栖川宮家に仕えたが、安政の大嶽(一八五八)に連座し、また桜田門の変(一八六〇)で再び捕えられて自殺した。墓は京都龍源寺にあるが、野史二九一巻をはじめ、門跡伝、諸家系譜などの名著もあり、幕末の歴史家として名高い。 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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