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説明板

もりもとしちろべえきゅうたくあと
森本七郎兵衛旧宅跡

現在の大阪東信用金庫本店の敷地は、八尾寺内町を建設した森本七郎兵衛貞次(もりもとしちろべえさだつぐ)(行誓居士)の旧宅跡でした。森本は、もともと久宝寺寺内町の年寄[としより]でしたが、慶長(けいちょう)11年(1606)11月11日に仲間16名とともに代官の不法を訴えて立ち上がりました。しかし、徳川幕府は、代官らの肩を持ちました。一方、森本たちに対しては、新しい町づくりを許可します。これが八尾寺内町です。 八尾寺内町は、新しくつくられた真宗大谷派(東本願寺派)の八尾別院大信寺(やおべついんだいしんじ)を中心に町が整備されました。八尾寺内町は在郷町(ざいごうまち)として発展し、現在の八尾市の基盤づくりに貢献しました。 【出典:『史跡の道・ステンレス説明板』(八尾市教育委員会)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

石板

りゅうげじあと
龍華寺跡

「続日本紀」によると神護景雲三年十月、龍華寺に 参詣された稱徳天皇が、ここで市を開いてその有様を遊覧され、またその際、綿と塩を施入されたとある。桓武天皇も、若江郡の一町六段を燈明料として寄進されたことが「類聚国史」に伝えられている。このように龍華寺は、律令時代の官寺として河内平野に甍をそびえたたせていた。鎌倉時代になると龍華寺は、河内源氏ゆかりの通法寺末として名をとどめていたが、やがて歴史から姿を消していった。現在、龍華寺の大門唐居敷が安中小学校西南十米の地中にねむっている。  【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、甲斐房之助 書】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

釈迦寺山碑

しゃかでらやま
釈迦寺山

ここは釈迦寺と称する寺址で最近までは高さ一メートル周囲六メートル四方の土壇に現存する石碑と五輪塔が祀られてあった。亀井の古刹真観寺文書によれば畠山昭高の創建とあるが、文永五年(一二六八)八月大和西大寺の叡尊上人が同寺の末寺であった千光寺の釈迦堂にて十重禁戒を講じ、六百五十人に菩薩戒を授けたことからその遺址とも考えられる。附近から鎌倉・室町時代の古瓦片が出土する。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、1987年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石板

じゅうさんかいどう
十三街道

十三街道は大阪玉造から十三峠までの道で大阪から竜田、奈良へ通う道として、また、山腹にある水呑地蔵さんへの参詣道として多くの人達に利用された重要な街道であった。ここにある道標はもと桂解放会館の東側あったもので、もとの場所は会館前で道が二回曲っていたため、二本の道標で、道案内をしていたが、道路整備の際にここに移されてきたものである。この道標は建立者の父の五十回忌の供養に建てられたもので、供養塔と、記されたものとしては市内で唯一の貴重なものである。【出典『史跡の道・説明石板』八尾市・八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石板

やおかいどう
八尾街道

八尾街道は平野で奈良街道(国道二十五号線)から分かれて、久宝寺寺内町、八尾寺内町、長八尾(南本町)を通って、老原で再び奈良街道に合流する重要な街道であった。ここは八尾寺内町の東口に当る場所で、立派な道標が残っている。その案内先表示には玉造、天王寺、信貴山などの近隣の地名のほか奈良、伊勢と遠方の地名も書かれている。西面には大きく町内安全とある。道案内をする道標が、旅の道中安全を願うのは通例であるが、さらに町内安全を祈願しているのは火災、疫病などから市民を守るためのものであろうが、今日でいえば安全都市宣言と相通ずるところがあり、貴重な道標である。 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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