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玉櫛荘と福万寺遺跡

たまくしそうとふくまんじいせき
玉櫛荘と福万寺遺跡

福万寺、上之島一帯は条里割がよく残り、その境界は、高安郡条里と河内郡条里の境に位置しています。この付近は、玉櫛荘と呼ばれた摂関家の荘園跡です。その名称は、平安時代の藤原實資の日記である小右記に初めてみられます。鎌倉時代の藤原兼仲の日記である勧仲記(かんちゅうき)には、ここに住んでいた武士たちが、本所や周辺の寺社と対立するようになったことが記されています。昭和57年、上之島小学校の建設にあたり発掘調査を実施したところ、鎌倉時代の武士の屋敷跡や道路などの遺構が検出され、中国製磁器(じき)や鏃、刀、宋銭、硯(すずり)などが出土しました。【出典『史跡の道・説明石板』八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会、1986年】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石室

たかやすこふんぐん こうりがわ30ごうふん
高安古墳群 郡川30号墳

日蓮宗本照寺の境内にある6世紀後半の古墳です。両袖式の石室で、玄室の平面形状が正方形に近い形をしていることが特徴的です。(妙道窟としてお祀りされていますので、本照寺に声をかけてから、静かに見学してください。鳥居の奥の扉の中が石室です。)【出典:『やおの歴史遺産 高安古墳群を歩こう』(八尾市教育委員会、2008年)】

石板

やおみなみいせき
八尾南遺跡

八尾南遺跡は羽曳野丘陵縁端に立地する縄文時代から鎌倉時代に亘る複合集落遺跡である。この遺跡の発掘調査で注目されるのは、古墳時代の掘立柱建物や竪穴式住居によって構成される村落・古墳 方形周溝墓および畦畔や足跡の遺る水田跡等である。出土品のなかには、古代王権の象徴である玉杖を模した木製の儀杖や、朝鮮半島の影響を強く受けた韓式系の土器などがあり、古墳時代の河内国を考える上で重要な内容を持った遺跡である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

銅鐸出土地

どうたくしゅつどち(あんようじきんぼう)
銅鐸出土地(安養寺近傍)

この地は恩智字向谷といい、本寺裏山の通稱垣内山のすぐ裏手の山裾から大正十年(一九二一)風雨のため山崩れが生じその赤土露出部より流水紋銅鐸が発見された。 流水紋様は弥生時代前期から中期にかけて近畿を中心に流行した流水紋土器に見られ、この鐸もその影響を受け作られたものであろう。 銅鐸は現在東京博物館にありその拓本が当寺にある。安養寺は浄土宗で本尊は阿弥陀如来である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石板

きゅうほうじいせき
久宝寺遺跡

長瀬川の西岸にかかる久宝寺一帯は古代より水陸交通の要衝として発展してきた土地で、弥生・古墳時代の大規模な集落遺跡として知られている。近畿自動車道の発掘調査では古墳時代の準構造船や韓式系土器が出土しており、古代の運搬や交易の様子が明らかにされている。久宝寺小学校体育館敷地では、平成三年に発掘調査が実施され、竪穴式住居二棟をはじめ多くの溝や小穴が検出されたことから、弥生時代末~古墳時代初頭の集落の一角であることが判明した。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、乾房子 書、1994年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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