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二室塚古墳

たかやすこふんぐん にしつづかこふん
高安古墳群 二室塚古墳

二室塚古墳は、300基近い古墳からなる高安古墳群の服部川に所在する、6世紀後半頃に造られた横穴式石室墳です。石室の構造は、右片袖式(みぎかたそでしき)の玄室を2つ連結したもので、全国的に類例のないものです。複数の石室を有する複室構造(ふくしきこうぞう)といわれる石室は、九州を中心に分布していますが、二室塚古墳の石室はこれと異なり、畿内で典型的にみられる片袖式石室を連結した構造で、このような石室は、同じ高安古墳群の郡川にある交互二室塚古墳(こうごにしつづかこふん)(右片袖式に左片袖式の石室を連結)にしかありません。二室塚古墳の石室は、当時の政権の中心であった畿内において、独自の複室構造として造られたものであり、畿内の横穴式石室を考える上で大変貴重なものです。また、二室塚古墳は、日本近代考古学の草創期である明治時代に、「日本考古学の父」といわれる英国人ウィリアム・ガウランドが、米国人ロマイン・ヒッチコックとともに、ガラス乾板による写真撮影を行い、「双室ドルメン」として、いち早く海外に紹介した古墳として貴重な学史を有する古墳です。ガウランドは、大阪造幣寮(おおさかぞうへいりょう)(現在の造幣局)の技術指導のため、わが国に招かれたお雇い外国人でした。彼は、日本各地の古墳の調査研究を行い、その業績は古墳の科学的研究の基礎を築いたものであり、「日本考古学の父」といわれています。ヒッチコックもまた、お雇い外国人であり、卓越した写真技術を持ち、日本の古代研究等にも大きな業績を残しています。彼らは、明治20~21年(1887~88年)に、高安古墳群を訪れたと考えられており、その写真には、当時の二室塚古墳石室の姿が明瞭に残されています。【出典:『史跡の道・ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会、2007年)】

入口

たかやすこふんぐん かいざんづかこふん・こうりがわ
高安古墳群 開山塚古墳・郡川2,3,3-B,4号墳

法蔵寺境内の山側の尾根には、開山塚古墳(郡川1号墳)はじめとする6世紀後半頃を中心に造られた横穴式石室墳が残されています。江戸時代に著された「河内名所図会」の法蔵寺境内の様子を描いた部分にもその姿が描かれています。これらは、八尾市の生駒西麓に分布する250基近い古墳からなる高安古墳群の一支群です。開山塚古墳という古墳の名称は、江戸時代に曹洞宗法蔵寺を開いた好山和尚の廟塔である清涼塔が、古墳の背後にあることから、名付けられたものです。石室の全長は、13mを測り、高安古墳群中、最大の両袖式の横穴式石室墳です。また、大森貝塚を発見した米国人の博物学者、エドワード・S・モースが、明治12年(1879年)に精密な図の作成を行うなどの調査を行い、欧米の学界にいち早く紹介した古墳でもあり、考古学の学史上も重要な役割を果たした古墳です。郡川2号墳、郡川3号墳、郡川3-B号墳、郡川4号墳は、開山塚古墳に比べると、小規模な横穴式古墳です。郡川2号墳は片袖式の、郡川3号墳は両袖式の横穴式古墳です。郡川3-B号墳は、郡川3号墳の墳丘裾で確認した無袖式の横穴式石室墳で、7世紀の初め頃のものです。郡川4号墳は、石室の全長が8m前後と考えられる横穴式石室墳です。開山塚古墳をはじめとするこれらの古墳は、高安古墳群の一支群のありかたを現代に伝える貴重な文化財として、平成16年度と平成17年度に八尾市指定史跡になりました。【出典:『史跡の道・ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会、2006年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

心合寺山古墳全景

しおんじやまこふん
心合寺山古墳

心合寺山古墳は、5世紀前半につくられた中河内最大の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、当時この地域一帯を治めた豪族の墓と考えられます。墳丘長は約160mあり、史跡指定範囲の総面積は約30,000㎡です。墳丘は三段築成で、くびれ部西側に「造り出し(つくりだし)」があり、平坦面には円筒埴輪(えんとうはにわ)や朝顔型埴輪(あさがおがたはにわ)などが立て並べられ、斜面には葺石(ふきいし)が葺かれていました。埋葬施設は、後円部に3つの「粘土槨(ねんどかく)」、前方部の「方形壇(ほうけいだん)」の下に木棺がありました。後円部の粘土槨のひとつである西槨から、甲冑(かっちゅう)、き鳳鏡(ほうきょう)、刀剣類などの副葬品が出土しています。周辺には、西ノ山古墳や花岡山古墳など古墳時代前期から中期にかけての古墳が造営されており、心合寺山古墳を含むこれらを総称して「楽音寺(がくおんじ)・大竹(おおたけ)古墳群」と呼んでいます。【出典:『史跡の道・ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会、2005年)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

弁財天塚

みやこづか
都塚(都塚・弁財天塚・大塚・祗園塚)

都塚:河内志に「荒墳五有都塚村有祗園塚、弁財天塚等号」などとある。都留美島神社の地を都塚、西方田圃中の塚を弁財天塚、北方村の入り口を大塚、融心寺内の塚を祇園塚と呼んでいる。古く10塚あったので、なまって都塚となったともいう。古瓦片が多い。神社は式内社で、もと南方にあったのを、ここに移したものと伝える。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

竹渕遺跡(全景)

たこちいせき
竹渕遺跡

八尾市域の西方、中央環状線(近畿自動車道)の西、大阪市域と接する竹渕地区にある遺跡である。この地域は「和名抄」にみえる渋川郡「竹渕郷」にあたり、古い地名であることがわかる。それゆえ、大阪市域にも遺跡範囲が広がることが予想される。本遺跡は一九八二年(昭和五七)、市立竹渕小学校の校舎増築に伴う調査で、古墳後期の、一辺約五メートルの方形の竪穴住居跡一棟と、焼土壙・土壙・柱根が残存する柱穴・弓状に曲がる溝が検出され、土師器(壺・羽釜)、須恵器(壺、杯身・蓋、器台)などの遺物も出土した。また近世の井戸なども検出されている。遺跡の範囲の確認や各時期の遺構・遺物が埋没しているとおもわれ、今後の調査が望まれる。【出典:『八尾市史(前近代)本文編』(八尾市史編集委員会、八尾市役所 昭和六十三年十月二十七日発行)】より抜粋  校区の北側には国道25号が東西に走り、東側には主要幹線道路の大阪中央環状線とその上を近畿自動車道が南北に走っています。一級河川平野川が東西に流れ、校区の周りを囲まれるように大阪市と接している比較的東西に長い地域です。校区内には公共交通機関はなく、最も近い駅としてはJR加美駅(JR関西本線)、JR新加美駅(JRおおさか東線)、出戸駅(地下鉄谷町線)がありますがいずれも市域外です。【出典:『竹渕小学校区地域レポート』(平成21年6月 コミュニティ推進スタッフ2009年)より抜粋】

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