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一号墳(復元)

かやふりいちごうふん
萱振一号墳

この古墳は、周囲に幅約五米の濠(ほり)を巡らした一辺約二十七米の方墳で、昭和五十八年の発掘調査で発見された。古墳は鎌倉時代に削られたようであるが、墳丘(ふんきゅう)の裾や濠から多くの埴輪(はにわ)が出土し、四世紀末頃造られた河内最古の古墳の一つであることが判明した。出土した埴輪(はにわ)のうち、矢を入れる武具をかたどった靫形埴輪(ゆぎがたはにわ)は高さ一四〇糎(180cm)とこれまでに見つかったものの中では最大で、美しい紋様で飾られており、府指定有形文化財(考古資料)に指定されている。【出典『史跡の道・説明石板』八尾市教育委員会・大阪府教育委員会、1994年】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石板

きゅうほうじいせき
久宝寺遺跡

長瀬川の西岸にかかる久宝寺一帯は古代より水陸交通の要衝として発展してきた土地で、弥生・古墳時代の大規模な集落遺跡として知られている。近畿自動車道の発掘調査では古墳時代の準構造船や韓式系土器が出土しており、古代の運搬や交易の様子が明らかにされている。久宝寺小学校体育館敷地では、平成三年に発掘調査が実施され、竪穴式住居二棟をはじめ多くの溝や小穴が検出されたことから、弥生時代末~古墳時代初頭の集落の一角であることが判明した。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、乾房子 書、1994年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

心合寺山古墳全景

しおんじやまこふん
心合寺山古墳

心合寺山古墳は、5世紀前半につくられた中河内最大の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、当時この地域一帯を治めた豪族の墓と考えられます。墳丘長は約160mあり、史跡指定範囲の総面積は約30,000㎡です。墳丘は三段築成で、くびれ部西側に「造り出し(つくりだし)」があり、平坦面には円筒埴輪(えんとうはにわ)や朝顔型埴輪(あさがおがたはにわ)などが立て並べられ、斜面には葺石(ふきいし)が葺かれていました。埋葬施設は、後円部に3つの「粘土槨(ねんどかく)」、前方部の「方形壇(ほうけいだん)」の下に木棺がありました。後円部の粘土槨のひとつである西槨から、甲冑(かっちゅう)、き鳳鏡(ほうきょう)、刀剣類などの副葬品が出土しています。周辺には、西ノ山古墳や花岡山古墳など古墳時代前期から中期にかけての古墳が造営されており、心合寺山古墳を含むこれらを総称して「楽音寺(がくおんじ)・大竹(おおたけ)古墳群」と呼んでいます。【出典:『史跡の道・ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会、2005年)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

石板付近

しばづかこふんあと
芝塚古墳跡

この古墳は、標高百米付近に位置しており、直径二十米程度の円墳であったと推定される。平成元年発掘調査を実施した結果、全長九.一米、玄室の長さ五.一米、幅二.二米、羡道の長さ四.一米の横穴式石室とその中に納められた組合わせ式家型石棺三基(棺)を検出した。出土遺物には、亀甲?花文・鳳凰文・心葉文を銀象嵌した直刀二振及び、六世紀末から七世紀中頃の須恵器・土師器の他、耳環・鉄製品などがある。高安地域の首長を埋葬した古墳の一つとして重要な古墳であったと思われる。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、甲斐房之助 書)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

俊徳丸鏡塚

しゅんとくまるかがみづか
俊徳丸鏡塚

この地は謡曲弱法師(ようきょくよろほうし)、浄瑠璃摂州合邦ヶ辻(じょうるりせっしゅうがっぽうがつじ)で名高い俊徳丸の故地で有名である。物語はこの高安の里の信吉長者(のぶよしちょうじゃ)の子であった俊徳丸が、継母に呪われて失明し、四天王寺の境内で物ごいの生活をする身となった。ところが以前、四天王寺で舞楽童をつとめた俊徳丸を見そめて恋仲となった同じ里の蔭山長者(かげやまちょうじゃ)の姪(めい)がこれを聞いて観音に祈願したところ病はなおり、二人は晴れて夫婦になったという。しかしこの塚は、横穴式石室をもつ六世紀の古墳であり、実川延若寄進の焼香台がある。【出典:『史跡の道・ステンレス製説明板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

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