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銅鐸出土地

どうたくしゅつどち(あんようじきんぼう)
銅鐸出土地(安養寺近傍)

この地は恩智字向谷といい、本寺裏山の通稱垣内山のすぐ裏手の山裾から大正十年(一九二一)風雨のため山崩れが生じその赤土露出部より流水紋銅鐸が発見された。 流水紋様は弥生時代前期から中期にかけて近畿を中心に流行した流水紋土器に見られ、この鐸もその影響を受け作られたものであろう。 銅鐸は現在東京博物館にありその拓本が当寺にある。安養寺は浄土宗で本尊は阿弥陀如来である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石板

なかたいせき
中田遺跡

中田を中心に東は刑部、西は別宮、北は小阪合、南は八尾木の範囲にひろがる広大な集落遺跡である。 弥生時代後期から人々が住みはじめ、古墳時代には大集落に発展している。奈良時代は「西の京」造営と関係があるのか平安時代中期の頃までの遺構、遺物の埋蔵が見られない。鎌倉時代に入ると寺を中心として再び大集落が復活し、室町時代末期まで繁栄している。 中田遺跡の特徴の一つに古墳時代前期の頃「吉備国」から運ばれた土器が多量に出土していることである。これは国土統一期における河内国と吉備国との関係を物語る貴重な資料となっている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

南側 熊野神社より

にしのやまこふん
西ノ山古墳

古墳時代前期の南面する前方後円墳である。もと楽音寺の村落がこの地の東の山麓にあった当時に古墳のある丘が「西ノ山」と呼ばれていたところから、そのまま古墳名として残っている。明治十四年(一八八一)開墾中に後円部から石棺が発見され、その中から人骨、勾玉、刀剣などが出土した。いま前方部は耕されて植木畑となっている。南の谷をへだてて、同じく前期の前方後円墳の花岡山古墳があった。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

全景

ひらのがわすじのいせき
平野川筋の遺跡

「平野川近辺の遺跡」について:古代人にとって水は重要なものであったので、多くの集落が川沿いに形成された。平野川沿いにも縄文時代晩期(約2500年前)の生活痕跡が確認される。弥生時代(2300年前)になると亀井と田井中に人々が集住し、数条の溝で囲まれた環濠集落が出現するようになる。古墳時代初頭(約1850年前)になると中田を中心とする集落が誕生するが、これは大和へ通じる古大和川の水運を利用する港としての性格をもっていたとする説もある。この頃平野川沿いでは木の本に集落が形成され、中期(1600~1500年前)には出土遺物から渡来人との関係が指摘されている。また、亀井、東弓削や中田では地中に埋没した古墳がみつかっており、かつて八尾にも多くの古墳があったことがうかがわれる。奈良時代(約1250年前)には称徳(しょうとく)天皇と弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が河内を訪れ、平城京に対する西の京として都市計画がなされたが、それは中田から東弓削周辺であったと考えられる。鎌倉時代以降、人々は村を作り耕作地を広げていくが、老原や太子堂でそうした遺構が良好に残っている。それは、近年まで残っていた農村の原風景といえるものであった。【出典:『ステンレス製説明石柱』】

弁財天塚

みやこづか
都塚(都塚・弁財天塚・大塚・祗園塚)

都塚:河内志に「荒墳五有都塚村有祗園塚、弁財天塚等号」などとある。都留美島神社の地を都塚、西方田圃中の塚を弁財天塚、北方村の入り口を大塚、融心寺内の塚を祇園塚と呼んでいる。古く10塚あったので、なまって都塚となったともいう。古瓦片が多い。神社は式内社で、もと南方にあったのを、ここに移したものと伝える。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

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