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正門

じんぐうじ
神宮寺(服部川)

神宮寺は貞享年間(1684~1688年)に創建された臨済宗妙心寺派の禅寺である。境内は四季折々に色づく花々、大樹に包まれている。「自然のまま」との住職の思いを映した境内墓地は、河内西國巡礼の巡拝の人々や、春秋の彼岸には檀信徒が法要に集まり、にぎわいをみせる。境内墓地の入口近くに「西向き地蔵」と呼ばれる「線彫り地蔵」がある。山門西側には樹齢500年に及ぶ楠の大木が社を守り、地域鎮守を担ってる。【出典:『神宮寺について』を参考】

正門

じんぐうじ かんのういん
神宮寺 感応院

天川山感応院と称し真言宗高野山普門院末。古くは恩智神社の神宮寺として神社の境内にあった。 本尊の十一面観音像は国の重要文化財また絹本着色不動明王像は府の重要美術品としてそれぞれ指定されており、慈雲尊者裏書の十六善神像など寺宝が多い。 本堂の内庭は僧愛石の作と伝えられている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】
*ご本尊は不動明王です。

*説明には一部現状と異なる場合があります。

神宮寺小太郎の墓

じんぐうじこたろうつか
神宮寺小太郎塚

神宮寺小太郎は当地の豪族で、神宮寺城を構え恩智左近満一とともに楠木正成に属し、その八臣の一人である。 正成湊川で戦死後はその子正行に従い四條畷に出陣して討死し、そのとき北朝方により神宮寺城も落ちた。 塚はもと古墳で明治末年に所有者により発掘され破壊されたという。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

正門

じんこうじ
神光寺

服部川の東方山腹にあり、谷一つ隔てて、郡川の法蔵寺に相対する。医王山薬師院神光寺と称し、曹洞宗蔭涼寺末である。享保年間(18世紀初め)に万徹和尚の開基で、薬師如来を本尊とし、本堂前に揚げてある“天玄堂”の扁額は、徳川光圀の帰依した東皇心越の書である。風景よく、参道には桜並木があり、桜の名所として知られ、春の花時には非常に賑わいを見せる。また付近一帯は、横穴式石室の後期古墳の群集地で、至る所に古墳がみられる。山門前には、懐徳堂、含翆堂創始者らの墓所を示す標石がある。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

地碑

すみともかいしょあととやまもとしょうがっこう
住友会所跡と山本小学校

住友会所跡 この地は大和川付替後、宝永五年(1708年)玉串川河川敷に生まれた山本新田を経営管理した会所跡である。 享保八年(1723年)より住友氏が所有し、その後約二百二十年間を経て昭和十五年(1940年)に至り山本八幡宮更に八尾市に寄贈され現在に至った。この間明治六年(1873年)山本小学校の前身、河内第四一番小学もここに創設され、常に河内山本発展の原点であった。【出典・不明】

 山本新田について
 この地は、大和川付替え後、宝永五年(1708年)に玉串川河川敷に帯状に開かれた山本新田のあつたところです。山本の地名の由来は、この新田開発を請け負った泉州箱作村の山中善兵衛とその子庄兵衛、および協力者の大阪平野の本山(加賀屋)弥衛門重英の名前の一字ずつをとって名付けられたといわれています。  その後享保十三年(1728年)に、この地は加賀屋から大阪長堀の泉屋吉衛門(住友)に移り、同氏は現在の近鉄大阪線の延伸とともに始められた住宅開発によって分譲されるまでの約200年間、この地を所有していました。
 ここから東南約300m の距離にある市立労働会館は、この新田を経営管理した住友会所の置かれていたところで、同所には現在の山本小学校の前身である河内第四十一番小学も設けられていました。 市立労働会館の敷地内には記念碑も設置されています。【出典・不明)

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