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石板

いいだただひこきゅうせいちあと
飯田忠彦旧棲地址

八尾の地十三ケ村の大庄屋飯田家の屋敷址である。忠彦(一七九八-一八六〇)は徳山藩士生田兼門の二男で、縁あって飯田家の養子となった。非常な読書家で、二階で読書に耽ったところから二階先生と呼ばれた。若くして、「大日本史」を読んで発奮、勤王の志厚く、有栖川宮家に仕えたが、安政の大嶽(一八五八)に連座し、また桜田門の変(一八六〇)で再び捕えられて自殺した。墓は京都龍源寺にあるが、野史二九一巻をはじめ、門跡伝、諸家系譜などの名著もあり、幕末の歴史家として名高い。 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

いこまじゅうさんとうげのじゅうさんづか
生駒十三峠の十三塚

①奈良県の竜田(たつた)に向かう十三街道の道筋にある峠を十三峠といいます。
 十三峠の北側上に「王塚」と称される直径6mの塚を中央に、その両側に6個の小さな塚が並んでいて、合計13個の塚が良好に残っています。
 十三塚は、供養塚あるいは、経塚(きょうづか)ではないかといわれ、十三仏信仰に関係しているとの話もありますが、よくわかりません。
 王塚の前に立てられた石碑には、「十三塚 嘉永三年(かえいさんねん・1850年)庚戊(かのえいぬ)四月吉日 施主(せしゅ)大坂 播磨太七(はりまたしち) 淀屋定助(よどやさだすけ)」の銘文があり、幕末には「十三塚」と呼ばれていたことがわかります。
[重要有形眠即文化財:昭和61年3月31日指定]

②生駒十三峠の十三塚:大和国と河内国の国境、奈良県生駒郡平群町と大阪府八尾市神立にまたがって所在する。河内より大和竜田・法隆寺へ抜ける十三街道のすぐ北側に南北に十三の塚が並んでいる。すでに江戸中期に広く知られた代表的な十三塚で、庶民信仰の様相を示すものとして重要であり、完存する十三塚として昭和六一年三月三一日重文指定を受けた。塚列は計画的に築かれており、標高四三八mの最高所親塚を築き、南北九〇mの範囲に六基ずつの小塚を配している。【出典:『木製説明板』(平群町教育委員会)】 
③峠の北側上に、王塚と称される大きな塚を中央に、その両側に六箇宛の小さな塚が並んでいて、十三塚といわれている。この王塚の前に石碑が立っているが、碑は「十三塚 嘉永三年庚戌四月吉日 施主大阪 播磨太七淀屋定助」の銘文がある。十三塚は神をまつる壇であるとも、また古墳であるともいわれている。古くここに石灯籠の王塚と記した竿石が、神立の玉祖神社の社家の庭に残っていたが、今は「八尾市立歴史民俗資料館」に保管されている。十三塚は、全国に330ヵ所程あったといわれるが、現存しているのは17カ所余りで、中でもこの神立の十三塚は大変良く残っていて、昭和61年2月21日付で兵庫県氷上郡山南町にある「金屋十三塚」とともに国の重要有形民俗文化財として答申された。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

石板

いなきのあと
稲城址

聖徳太子が物部守屋の館のあった阿都の桑市を攻めたとき、守屋は兵を集めて、この地に稲城を構えて抗戦したという。稲城は稲で囲った城とか、稲積みの城であつたとか伝えられる。
この碑は昭和十四年建立された。
【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

意満時 正門

いまんじ
意満寺

信貴道丁石 四丁石の立っている対面角にある…信貴道道標と丁石:旧高野街道の教興寺四つ辻は、高安信貴山道の起点であり道標が2本建っている。南西角の寺川家前の道標は、宝永5年(1708)のもので、市内の建設年次を記した道標としては一番古いものである。南東角の浅田家前の道標は、元治1年(1864)のもので、いずれも信貴山案内のものである。参詣道には一丁毎に丁石が建てられ、今も十数本の丁石が残っていて昔をしのばせる。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)より抜粋】

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