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説明板

きゅうほうじじないまち
久宝寺寺内町

久宝寺は、戦国時代に寺内町として建設された、450年以上の歴史を持つまちです。蓮如上人は、文明2年(1470年)の河内布教の際、「帰する者市の如し」といわれるほど帰衣する人が多かったので、この地に西証寺を建立しました。西証寺は後に顕証寺と寺号を改め、天文10年(1541年)頃にこの御坊を中心として久宝寺寺内町が誕生しました。ここには多くの真宗門徒が集まって自治を行い、また商工業者も集まって経済的に繁栄していました。久宝寺寺内町には江戸時代の絵画が残っており、昔のまちの構成を知ることができます。寺内町は環濠と土居で囲まれ、まちへの出入りは6か所の木戸口から行われており、内部は東西に7本、南北に6本の道路が碁盤目状に走っていました。このような町割りは現在でもほぼ当時のまま残っており、貴重な歴史的遺産として注目されています。また江戸時代から現代に至るまでのさまざまな様式の町家がみられ、この中に社寺や土蔵、あるいは道標、地蔵堂、水路などが通りのアクセントとなってつくられる久宝寺の町並みは、450年以上の歴史を今に伝える生きた歴史の教科書といえます。  【出典:『久宝寺寺内町ご案内 まちつややか 説明板』 (八尾市)】

石板

きゅうほうじじょうし
久宝寺城址

久宝寺城は室町幕府に仕えた渋川満貞の居城と云われる。満貞は畠山満基の長子で、渋川郡を領したことから渋川と称した。麟角堂を創建し又毎年七月十四・五日は城内で精霊祭を催し、領民は五日間盆踊りをしたと言う。満貞の嫡子の光重は播州安井郷を受領、安井と改姓し、定重の時に織田信長に仕えたが、天正五年、光佐顕如上人の本願寺兵に攻められ、城は陥落した。城址は寺内町西北の出隅に「城土居」の地名を残している。 「久寶寺村誌」より  【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、角谷彰彦 文、乾房子 書、1996年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

説明板

きゅうやまとがわのていぼうあと
旧大和川の堤防跡

御野縣主神社の境内には、社殿の西側に長さ63mにわたって、旧大和川の堤防跡が残っています。 江戸時代、宝永(ほうえい)元年(1704年)の付け替え前の大和川の川筋は、二俣付近で、二つに分かれており、その分流の一つが現在の玉串川です。 現在の玉串川の川幅は、神社の西側付近で5m位ですが、付け替え前の川幅は200m近くもありました。この堤防跡は旧玉串川筋の東側の堤防の跡になります。江戸時代の初めには、川底がまわりの土地より高い天井川(てんじょうがわ)となり、たびたび堤防が切れて、洪水の被害をもたらすようになっていました。このため今米村(いまごめむら)(現東大阪市)の庄屋、中甚兵衛(なかじんべえ)らの尽力により宝永元年に付け替えが行われ、現在の川筋となりました。御野縣主神社の境内に残る旧大和川の堤防跡は、付け替え前の大和川の様子をしのぶ貴重な史跡になっています。また、堤防跡の南東側には、上水道の整備が行われる以前に、天井川となった玉串川の湧き水を簡易水道(かんいすいどう)として利用するため、上之島の人々が設けた親井戸(おやいど)の跡も残っています。【出典:『ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会 2004年)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

公園内に設置

きゅうりくぐんおおさかこうくうしょう つうようもんのもんちゅう
旧陸軍大阪航空廠 通用門の門柱

もとは北側の市道交差点にありましたが、道路拡幅に伴い、通行に危険なため、平成17(2005)年5月にとりのぞかれることとなり、二本の門柱のうち西側の一部が、保存されることになりました。この門柱には、「通用門」と彫られた大理石がはめこまれています。大阪航空廠は、昭和15(1940)年に、軍事用の飛行機の組み立てや修理・整備などを行う施設として、建設されました。現在の八尾空港は、太平洋戦争中は、大正飛行場とよばれる軍事用の飛行場でした。その西側の八尾市西木の本から大阪市平野区長吉の一帯が大阪航空廠で、約二千人の人々が働いていました。その中には軍人や技師だけでなく、近くの村から集められた人々や、大正校区の生徒・児童たちも働いていたといわれています。戦争中の人々のくらしを後世に伝える、八尾市内の数少ない遺産の一つとして貴重です。平成17年6月八尾市教育委員会 文化財課【出典:『ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会、2005年)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

正門

きょうこうじ
教興寺

獅子吼山大慈三昧院教興寺は秦河勝の創建と伝えられ俗に薮寺ともいわれている。 真言律宗西大寺の末寺で境内南方の寺池は臨池式大伽藍の遺構といわれ、鎌倉時代西大寺叡尊によって復興され文永弘安の役には蒙古降伏の大祈祷が行われた。 また永禄五年(一五六二)河内国守護畠山高政と三好義興、松永久秀とのいわゆる教興寺合戦により全焼 江戸時代浄厳和尚によって再興されたが明治十八年の台風で本堂が倒れ旧客殿を仮本堂としている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】

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