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①当山正式寺号は紫雲山来迎院光明寺といい、1691年(元禄4年)秀山和尚の中興と伝える。阿弥陀如来を本尊とする融通念仏宗のお寺で、河内西国本尊の十一面観音は、霊験いちじるしく往古より、人々の厚い信仰を集めている。【『紫雲山 光明寺』より抜粋】
②融通念仏宗の光明寺の山門入り口の地蔵堂に、総高108㎝、幅73㎝、の舟形光背に、像高78㎝の地蔵立像が安置されている。室町時代末期のものであろう。名号板碑は、片麻岩製。頂部のとがった高さ180㎝のもの。中央に南無阿弥陀仏の六字名号と天正12年10月15日の紀年銘があり、その下に多数の法名が刻まれている。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)より抜粋】
③境内に建つ「中高安(なかたかやす)小学校発祥の地」の石碑。1872年(明治5年)小学校教育が始まったとき、この地区では光明寺が学舎として選ばれている。歴代の住職が漢学、儒学を教えるなど、地域の文教とかかわりが深い。【『紫雲山 光明寺より抜粋】
奈良街道(ならかいどう)から田井中村に分岐する角の、西南の田んぼの中にあります。高さ1m、周囲5m四方の塚状の上に小さな祠がまつってあり、俗に五条宮と呼ばれています。 付近から奈良時代の瓦が発見されており、五条宮寺と称した寺の跡と伝えられています。また、地名から老原廃寺(おいばらはいじ)ともいいます。写真は、昭和40年代頃の「五条宮址」のようすです。【出典:『八尾市文化財情システム』より】
式内社で、もと牛頭天王と称され、渋川六座の一である。この地は古く巨麻荘といい、河内国諸蕃の大狛連の住地で、その祖神をまつったと伝えられる。 境内の手洗いの屋形は、むかしの宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残りである。 この寺は、聖徳太子の建立で、戦国時代に兵火に逢って焼失した、 その後観音院のみ復興したが、明治初年廃寺となった。本尊十一面観音はいま念佛寺にある。 神社の西方に、むかし弥生式土器を埋蔵したベントウ山があった。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
許麻神社鳥居前の辻堂内にあるこの地蔵は、亡父の追善供養のために造顕されたもので、像の左右に次の銘文がある。爲景 慧 禅定門追善 天文廿一壬子四月 日孝子敬白 いまは安産地蔵といわれている。像は中央部で折損しているが、後世つぎ固められている。材質は花崗岩で、高さ六二センチメートルである。 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
権現社の沿革:神社明細書には「慶長年間(一五九六~一六一四)に、熊野権現を勧請した」と書かれている。寛政二年(一七九〇)意満寺の南西端にあった愛宕神社を合祀した。鎮座地 当初は、黒谷一〇二一番地 山頂に近い常川(伝承)。その後、黒谷一一四二番地…現在地の南東 約一〇〇メートルに遷座。昭和三年(一九二八)十月三日 現在地に遷座。昭和十五年(一九四〇)境内を東部に大拡張(約五倍に)して神殿 拝殿 玉垣などを建設、神社の様式を整えた。昭和六二年(一九八七)神殿を改修、境内を東部に拡張した。境内にある古い灯籠 南部にある一基は元禄十三年(1700) 拝殿前の二基は宝暦二年(1752)【出典:説明石板』(1987年)】
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