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けんしょうじ りょうわきついじべい
顕証寺 表門・両脇築地塀

顕証寺は、久宝寺寺内町に位置し、浄土真宗本願寺派で「久宝寺御坊」ともよばれています。表門は、境内の東側正面に位置し、屋根は切妻(きりづま)造、本瓦葺(ほんがわらぶき)の四脚門で、前後に軒唐破風を付けています。切妻造の本瓦葺の築地塀は、表門が築地塀に対し境内側に位置するために鍵の字に折れて表門両脇に付いています。
明治時代の建立と考えられていた表門は、建立年代を示す棟札の発見により、寛政元年(1789)の再建で、正徳六年(1716)に建立された本堂に続いて、本願寺直系の正統的な大工が、顕証寺表門を造作したことが明らかになりました。
 また、表門の棟梁は、寛政十年(1798)に再建された摂津富田の寺内町の中核寺院で「富田御坊」と呼ばれる高槻市本照寺の表門と同じ大工であることから、相互の関連性がうかがえます。
 享和元年(1801)の「河内名所図会」に描かれた顕証寺の伽藍と比較すると、本堂、表門、築地塀、長屋、長屋門、渡廊は現在の位置に見ることができ、顕証寺の外郭施設を構成する遺構として現存する表門と築地塀は、寺内町の御坊としての格式を示すとともに町並の景観に寄与しています。
[八尾市指定文化財:平成19年12月12日指定]

山門

けんしょうじとじないまち
顕証寺と寺内町

古くはこの地を橘島久宝寺といい、早くから親鸞聖人の高第信願房法心の建てた慈願寺があった。 文明二年(一四七〇)蓮如上人がここに布教し顕証寺(久宝寺御坊)を建てた。この御坊を中心に周囲に二重の堀と土屏をめぐらし、街路は基盤の目のようになっていた。 このようにして本願寺門徒衆は戦乱を防ぎ門徒の団結をはかる寺内町を作った。この町では御坊が一切の支配権をもち、久宝寺城主安井氏がこの権を委された。いわゆる中世末期浄土真宗本願寺派などの寺院の境内に発達した集落である。 顕証寺は、浄土真宗本願寺派八尾別院で連枝の格式をもち、河内十二坊の総支配をつとめた。 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

五輪等

こうだちきょうどうぼち
神立共同墓地

河内七墓の1つで、五力村(神立・水越・大竹・大窪・千塚)の墓地として管理されている。墓石の中のひときわ大きい五輪塔は、総高2mある。各輪に梵字を刻み、地輪に、正和2年(1645)11月19日、大窪村の岩田氏の墓である大字がある。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

石板付近

こうだちちゃやつじ
神立茶屋辻

この街道はむかし大阪玉造と大和竜田を結ぶ重要な道筋にあたりこの辻には多くの茶屋が並んでいたのでその名がある。また在原業平と茶屋娘の恋物語りで名高い。 業平が峠を越え玉祖神社へ参詣の途中、福屋の娘梅野をみそめたが、ある夜東窓があいていたので中をのぞくと、娘が手づからでめしを食っているので、急に興ざめ逃げ帰った、娘は後を追ったが見あたらず悲んで渕に身を投げた。 この高安の里では、今でも東窓を忌み、これをあけると娘の縁が遠くなるという伝説がある。 この道を登ると水呑地蔵、十三峠がある。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

地蔵堂

こうだちつじじぞう
神立辻地蔵

神立地蔵堂(南小路の地蔵)内にある。神立集落の中、十三街道を水呑地蔵へ上がる登り口に当るところにある。総高115㎝、幅48㎝の舟形光背に像高83㎝の地蔵立像がある。江戸時代初期をくだらない地蔵と考えられる。この地蔵堂の前に、第一番の石仏がある。ここから水呑地蔵まで、33カ所、六十六番までの二対組み合わせの石仏が並ぶ。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

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