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常夜灯として夜道の安全を守り、人々に親しまれてきた灯籠です。かつては、植松村の東口にあったものといわれ、のちに奈良街道沿いの仲之町(現在の植松6丁目)にあったものを移設しました。灯籠の一番上の笠の部分は櫓形をしており、灯りをともす火袋の台になる中台には「金毘羅大権現」、柱の部分の竿には「常夜灯」、「寛政十一年己未歳十月吉日」、「発起人 絹屋佐兵衛」の文字があります。この灯籠が、寛政11年(1799)に、金刀比羅宮(香川県仲多度郡琴平町)に参拝した記念に建てられたことがわかりなす。江戸時代は、自由に旅に出ることができませんでしたが、寺社の参拝なら許され、金毘羅参りや伊勢神宮へのおかげ参りが盛んに行われました。江戸時代の人々の信仰を考える上でも、貴重な文化財です。出典:【『ステンレス製説明板』(旧植田家庭・灯籠横)】
*説明には一部現状と異なる場合があります。
墓地の入口の六地蔵は古風である。その右端の一体は、温和な表情、丁寧な彫りで、均整がとれた地蔵である。像の左右に銘文がある。□□岳大菩薩妙□□尼菩提 天正三亥年宗清禅定□菩提深寛大法妙菩薩 二月三日 天正3年(1575)の造立である。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室・八尾市郷土文化研究会、1998年)より抜粋
延喜式では小社に列せられており、現在、瓊々杵命(ににぎのみこと)と彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)を祀っている。「三代實録」に元慶七年(八八三)「河内国正六位上堺神二従五位下ヲ授ク」とあり、古代は坂合部連(さかひべむらじ)の祖神を祀っていたと考えられる。坂合部連の祖は、「旧事本紀」に「火明命(ほあかり)十六世孫」とある。近世には、小阪合村の氏神として崇拝されていたが、明治四十年八月二十日矢作神社に合祀された後、昭和三十二年旧社地に復興した。楠根川を挟んだ南西側には、古墳時代の集落跡である小阪合遺跡がある。 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1994年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
杵築神社の後方東側にあった小さな塚状の土地をいった。俗称を狐山、正式には佐堂生が塚という。宮寺の土壇の跡と考えられる。開発に伴い現在はその跡地に「佐堂生が塚跡」の石碑が立つ。もとここに,元亀元年(1570)の道智墓碑があった。今この墓碑は、佐堂墓地に移されて保存されている。これは舟形の花崗岩に、五輪塔を陽刻し各輪に梵字を記し、地輪に元亀元年・道智・八月廿八日の銘がある。【出典「八尾の史跡」棚橋利光著・八尾市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会編集】
式内社で当地山畑の産土神である、旧社地は百メートルうえの扇状地の谷口天神山にあったが、明治三十一(一八九八)年現地へ移った。 山畑神社はこの社の末社で春日御子大明神なり。 敷地は東西七メートル 南北一〇メートルあり、この付近から素焼の陶棺が出土、今は東京博物館にある。 境内に力石(一六五キログラム)があり、明治初期にはこの石をもちあげて力くらべを楽しんだ。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
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