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恩智城は中世この地の豪族恩智左近満一が築いた。自然の高地を利用した城郭で高安連峰との間に堀をめくらせ前方に大阪平野を一望のもとにおさめた。 堀の中にかつては小島があったがそれはむかしの一の丸で現在の城址は二の丸の址という。 正平三年(一三四八)四條畷の戦いで楠木正行が戦死し恩智城も落ちた。 学制領布のときここに小学校が新築され、今では桜の名所として知られている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾教育委員会、1980年)】
*恩智左近の出身地などについてはいくつかの説があります。
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
式内社でもと天児屋根命をまつったが枚岡神社に遷座の後は五世の孫大御食津彦命、大御食津姫命をまつる。河内の二の宮で元春日と称されている。当社は初め天王の森にあったが恩智城を築くにあたり現地へ移したと伝えられる。 古くからお粥占や茅巻の神事が行われ社殿裏には横穴式古墳があり北辺の垣内山は銅鐸出土地として名高い。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
この地、天王の森は恩智神社のお旅所でこの森を中心として東高野街道から恩智川に至る付近一帯は府下でも有名な弥生時代の遺跡で大阪府の建てた碑がある。近年縄文式土器も出土している。 今日まで地下およそ三メートルの辺から種々の石器土器が出土し、またこの斜面から石鏃が露出した。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
垣内、教興寺、黒谷、郡川、服部川、山畑地区の共同墓地で、行基のつくった河内七墓の一つである。戦国時代末期の小五輪塔や、江戸時代前期の年号をもつ名号板碑などが多く残っている。墓域の東側の高台には、高さ二メートルを越える大きな五輪塔が建立されている。空・風・地輪は後世のものであるが、火輪は軒反りも力強く鎌倉様式で、水輪も大きく重厚なものである。全体的にもつりあいがよく、整然とした五輪塔で、市内でも代表的な石塔といえる。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、甲斐房之助 書)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
標高一七メートル、俗に松山とか腹痛山という 墳丘の上部には粘土郭が残り、また火葬跡が二ヵ所発見され、石櫃の蓋の破片も出土している。 古噴時代の中期末の環濠式前方後円墳で、数年前に採土され、その跡に小神祠をまつる。入口のところに宝山神社の碑がある。 昭和三十四年四月大阪府から史跡として指定された。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
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