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神社・仏閣

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参道入口鳥居

いわとじんじゃ
岩戸神社

教興寺字弁天山の山腹の巨岩の中にある。俗に岩屋弁天として名高く、神体は木彫の極彩色の弁財天であったが、明治の初め神仏分離後教興寺の本堂に安置されていた。 古くは教興寺の鎭守であり傍らに式内社で春日戸神と称した天照大神髙座神社が巨岩の窟の中にあった。いかなる旱天にも流れの変らない白飯の滝がある。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】

うえまつきょうどうぼち
植松共同墓地(植松晒墓地)

植松共同墓地由来:行基菩薩は幾内に多くの寺を建て、池を掘り橋をかけ布施屋を設けて仏教の布教と共に人びとの苦悩を救った。当時相つぐ天災に倒れた数多くの人のため河内に七墓を造り厚く葬った。この植松共同墓地もその一にあたり今に河内七墓詣りの信仰が伝えられる。【出典:『行基菩薩開基石版』(八尾市教育長 青井富三郎書識)】

本殿

えこうじ
恵光寺

大徳寺と号し真宗西本願寺末である。寺院の西南の地は字城土居と呼ばれ萱振城の跡と伝えられる。南北朝時代から室町時代にかけてこの附近一帯はたえず戦場となり荒廃したが文明二年(一四七〇)蓮如上人が河内布教のあとその子蓮淳を開基としてここに恵光寺を建立し、萓振寺内町を形成した。南に念仏橋があり、帰依する者も多く河内若江二郡五十二ヵ寺の触頭(ふれがしら)をつとめ萓振御坊(柳の御坊)とも呼ばれる由緒深い寺院である。出典『史跡の道・説明石板』八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会、1987年】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります

石柱

えんほしゃあと
簷葡舎跡

叡山で天台教学を修め、京都で貫名海屋・染川星厳・賴山陽に学んだ佛蓮が、天保八年頃、植松・松林寺に来住して開いた幕末八尾を代表する私塾であった。【出典:『説明石柱』(八尾市教育委員会)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

鳥居

おおかわじんじゃ
太川神社

由緒
 太川神社は太子堂中央字高見に鎮座(現在地八尾市南太子堂六丁目拾壱番地)太子堂は聖徳太子縁の古き地にして神社の建立亦古し創建の年代は詳らかならざるも古来より當領水域一円を潤す太川の名に因み太川神社と称え奉る。御祭神の素戔嗚命は災難、厄除け招福の神として勇氣と活力を授け給い保食神は五穀豊穣と商賣繁昌に靈驗灼かなり。舊大和川、太川は太古より洪水の歴史を繰り返し、寶永元年(西暦一七〇四年)現在の大和川に川違えせらる。翌寶永二年旱魃起り以来村民水飢饉に苦しみ、厄除けの爲神社に参籠とんどを行い御祭神に祈願せり、その後惡疫水災害の憂いもなく平穏安泰となり住民遍く神の御恵みに浴し太子堂の氏神として崇敬篤く現在に至る。明治五年村社に列し、同年本地の稲荷社を合祀せり。【出典:『説明木板』(1983年)】

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