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あごなしじぞうそん
あごなし地蔵尊

久宝寺御坊(顕証寺)前の地蔵堂内にある。総高41cm舟形光背に高さ14cmの蓮華座を彫り出し、その上に立つ像高22cmの地蔵二尊仏で、双体道祖神を想わせる像容である。像の左に“をきのくに あごなし地蔵”と陰刻されている。あごなし地蔵は隠岐島の小野篁作といわれる地蔵が本家である。口の中が荒れたり、虫歯で痛んだ時に祈願すればなおしてくれる地蔵である。地方によっては、全快すれば「お名前をひろめます」と約束し、板に「隠岐国あごなし地蔵菩薩口中一切願成就業年男」と書いて四辻に建てるところもある。【出典:八尾市史紀要第10号『八尾の石仏』(谷野浩著・八尾市教育委員会文化財室1987年)より抜粋】

浅野家住宅

あさのけじゅうたく
浅野家住宅

平成16年11月に、主屋、乾蔵、巽蔵、東納屋、南納屋が国登録有形文化財になりました。主屋は、嘉永元年の祈祷札が発見され、乾蔵とともに、江戸時代末期の建築です。当時の建築様式を良く保っており、久宝寺寺内町で最も古い町家の一つとして、貴重なものです。また、5棟の建造物全体が、寺内町の屋敷景観を良く残しています。 【出典:『ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

愛宕塚古墳

あたごづかこふん
愛宕塚古墳

古墳時代後期の横穴式石室墳である。封土は墳頂部を除いてよく保たれており墳丘は径約二五メートル、高さ六、五メートルで、円墳の形状をよくとどめている。巨石を積み上げた横穴式石室は奥行一六、七六メートル、玄室の高さ四、一メートルを測り、高安古墳群中最大規模の後期古墳である。石室は古くから開口していたが、昭和四二年学術調査が行われた。遺物では凝灰岩製の家形石棺片、鉄製利器、金張鉄製品、土器のほか玉類、鉄地金銅張馬具など優れた副葬品が多量に残存していて被葬者の地位、性格を物語っている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石板

あとべいせき
跡部遺跡

跡部、春日町一帯に所在する跡部遺跡は、日本書紀にみえる阿都(あと)という地名に通じることから、物部(もののべ)氏の本拠の一角であったと推定され、六世紀の遺構、遺物が検出されている。また、下層には弥生時代の集落跡があり、多数の土器や石器が出土し、平成元年には春日町一丁目の地下より流水紋銅鐸(りゅうすいもんどうたく)が一.四メートル四方の穴に埋納された状態で発見されている。平成五年に実施した竜華小学校体育館敷地及び周辺の発掘調査では、弥生時代の集落を幾重かに取り囲む溝が検出された。【出典:『史跡の道・説明石板』(松岡裕子書・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1994年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

鳥居

あとべじんじゃ
跡部神社

由来:当神社は延喜式内社(今より約阡八十年前)人皇天皇第六十代醍醐天皇時代に延喜年間と言ふ年号が有り、通稱平安時代又は藤原時代と言はれております。其の初期にお祀りされておりましたのを今の跡部神社であり、その時に有りました神社を式内社と言はれております 又神社の創建せられました年月は不明でお祀りして有る御祭神もあきらかでありません 然し此の地は昔から古の跡部郷と言ひ阿刀連と言ふ人がおられました。それ故に阿刀の連と言人の祖先としてお祀りされたと言はれております。しかるに明治五年四月太政官公附で天照皇大神 伊弉册大神を一緒に合祀せられ同年に村社に列せられました 現在は天照皇大神 阿刀連大神 八王子大神の御三方の神様がお祀りしてあります 八王子大神様とは北亀井の里に小さなほこらにお祀りして有りましたが昭和の初期に神社に合祀されました 跡部神社の建造昭和四十八年十月正遷宮に建設す 【出典:説明石板』(跡部神社社殿竣工記念芳名石1973年)】

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