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神社・仏閣

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楽音寺墓地

がくおんじぼち いたひ
楽音寺墓地 板碑

板碑:花崗岩製。総高94㎝、幅40㎝程の船形をした石の表面に、大きい宝篋印塔形を薄肉彫している。基礎部の堅枠に、元亀元年9月19日、阿闍梨実盛の陰刻がある。西暦1570年の造立である。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

鳥居

かしむらいなりじんじゃ
柏村稲荷神社

柏村稲荷神社由来:古来この辺りは旧大和川が流れていたが、たび重なる洪水により附近の人々は大へんな災害を蒙るので当時川筋に当る今米の庄屋中甚兵衛親子二代が五十年間幕府に訴えつづけ、遂に許可を得て現在の大和川に付替えられたのが、宝永元年(一七〇四)で二八一年前のことである。そこで旧川の川床や沼地を三年がかりで開墾し24町歩余りの新田とされたのが大田村の柏原仁兵衛芳次で爾耒同氏を偲び柏村新田と称えられる。起工を決意した仁兵衛は直に伏見稲荷神社に詣で御分霊を勧請してこの地に奉祀された。工事の完工は勿論、住民の家内安全、五穀豊穣を祈願され別名白姫神社とも称されるが、祭神は倉稲魂神と申し柏村の鎮守社として崇敬されている。【出典:説明石板』(柏村稲荷神社世話人、1985年)】

祭場

かづらじんじゃ
式内社 加津良神社

この加津良神社は「河内名所図会」では萱振村にありとしている。祭神は素戔嗚(すさのお)命であるが、現在は牛頭天王(ごずてんのう)と称している。疫病を治める神として祀られた。貞観九(八六七)年二月二十六日官社となる。昔は社地が広く、宮跡、神道森、鳥居、西松馬場などの地名が残っている。明治四十一年、栗栖(くるす)神社に合祀されたが戦後復活した【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1994年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

説明板

かぶらやづか
鏑矢塚

用明二年(587)に厩戸皇子(うまやどのおおじ)(聖徳太子)をはじめとする皇子達と蘇我馬子(そがのうまこ)らは、渋河の地で物部守屋(もののべのもりや)の軍勢と戦います。稲城(いなき)を築き、榎木の上から弓を放つ守屋に苦戦した皇子らは三度退却しますが、四天王に祈願すると、迹見赤檮(とみのいらい)の放った矢が守屋を討ち、皇子と馬子らは勝利したと『日本書紀』に記されています。大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)の周辺にはそうした史跡が残されており、鏑矢塚は、迹見赤檮が守屋を射た矢を埋めたと『大聖勝軍寺略縁起』(1455)は伝えています。鏑矢とは、先端が植物の「かぶら」のような形をしている矢のことです。『日本書紀』にはみられませんが、太子信仰や八尾の歴史を考えるうえで重要です。【出典:『ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会、2010年)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

祠

かみのしまのべついしにそんぼとけ
上之島の別石二尊仏

大阪府立山本高校のテニス場の東側の道路に面して別石二尊仏が祀られている。高さ八十五センチメートル、下巾六十六センチメートル、厚さ三十センチメートルの同じ大きさの石材を、夫々三角形につくり、その表面に像高五十八センチメートルの如来坐像が陽刻されている。向かって左は法界定印阿弥陀仏、右は薬師如来である。石材は凝灰岩で二つの石仏は同じ石大工により造立されたものであろう。やや磨滅しているが磨崖仏を切りとったようで、丸味があり体部の肉づけもよく重圧さがうかがえる。鎌倉時代末期ごろの造立ではなかろうか。この付近は昔竹籔が多く、耕地整理したとき偶然に発見されたもので、初めは近くの臨済宗妙心寺末の中正寺門脇に安置されていたが、七年前地蔵の所有地であった現在地に移されたものである。諸事祈願を成就してもらえる石仏として附近の信仰は厚い。【出典:『八尾の石仏』(谷野浩・八尾市教育委員会編集発行1987年)】

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