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発掘品

かやふりいせき
萱振遺跡

萱振遺跡は、楠根(くすね)川右岸に位置する古墳時代を中心とする集落遺跡である。府営住宅建替時の発掘調査では、四世紀の井戸から、吉備(きび)や山陰四国地方より持ち運ばれてきた土器が多数出土した。また、三~四世紀の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)や六世紀の古墳などが検出されており、弥生時代の土器棺(どきかん)や飛鳥時代の土馬なども出土している。昭和六〇年に実施した八尾中学校体育館敷地の発掘調査では、古墳時代の溝跡から、布留式(ふるしき)土器と呼ばれる四世紀の土器が出土している。【出典『史跡の道・説明石板』八尾市教育委員会、1994年】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

一号墳(復元)

かやふりいちごうふん
萱振一号墳

この古墳は、周囲に幅約五米の濠(ほり)を巡らした一辺約二十七米の方墳で、昭和五十八年の発掘調査で発見された。古墳は鎌倉時代に削られたようであるが、墳丘(ふんきゅう)の裾や濠から多くの埴輪(はにわ)が出土し、四世紀末頃造られた河内最古の古墳の一つであることが判明した。出土した埴輪(はにわ)のうち、矢を入れる武具をかたどった靫形埴輪(ゆぎがたはにわ)は高さ一四〇糎(180cm)とこれまでに見つかったものの中では最大で、美しい紋様で飾られており、府指定有形文化財(考古資料)に指定されている。【出典『史跡の道・説明石板』八尾市教育委員会・大阪府教育委員会、1994年】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石板

かわちけんちょうあと
河内県庁跡

明治二年一月二十日、河内県役所が大阪市鈴木町に設置され、同年四月二十二日役所は当地大信寺(八尾御坊)へ移され、対面所が役所にあてられた。 しかし、この役所はわずか八カ月で堺県へ合併され、出張所として残されたが、同年九月七日廃止された。 なおこの地には、明治二十八年(一八九五)大阪府立第三尋常中学校(現八尾高等学校)が仮校舎として開校した。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

環山楼

かんざんろう
環山楼

環山楼は江戸の中期、当時八尾の豪商であった石田利清の設けた郷塾である。創建の年次は詳かでないが、命名は享保十二年(一七二七年)京都堀川の儒者伊藤東涯がこの地に招かれ講義のあと一泊、このとき学舎から高安、二上、金剛の山なみを一望し、その景観をめで環山楼と名づけたという。 学舎の創建当時は八代将軍吉宗の実学の奨励と文教刷新の時代であり、各地に郷学、私学の創設がつづき、この学舎も河内の中心地八尾にあった唯一の郷塾であり、後年東涯がこの思い出をまとめて記した「環山楼記」とともに、その扁額も保存されている。石田利清は字は善右衛門、賢明にして弁舌をよくし、その識才は郷土一円に名高く私淑する者多く、この学舎によって近郷の人々の教化を行った功績は特記すべきである。この学舎は創建当初八尾税務署裏西側付近、通称産屋といわれた地にあったが、昭和期に入って付近の公共工事施行のため三たびの移築で現八尾小学校敷地内に移されたが、さらに昭和五十六年に至り同校内に設置されるプ―ル建設工事のため四たび移築か廃棄かの岐路に立ち至ったが、市内の民間企業や篤志家から文化財愛護の精神に立っての浄財が寄せられ整備の上後世に永く保存することになり現在地に移された。  【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会・星電器株式会社・八光信用金庫・八尾菊花ライオンズクラブ・濱田又三郎 1982年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

[八尾市指定文化財:平成11年3月10日指定]

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