【36件中 16~20を表示しています。全8ページ】 前ページへ 1 2 3 4 5 6 7 8 次ページへ
神宮寺小太郎は当地の豪族で、神宮寺城を構え恩智左近満一とともに楠木正成に属し、その八臣の一人である。 正成湊川で戦死後はその子正行に従い四條畷に出陣して討死し、そのとき北朝方により神宮寺城も落ちた。 塚はもと古墳で明治末年に所有者により発掘され破壊されたという。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
制札場とは江戸時代に幕府代官や領主が掟、条目、禁令を板又は紙に記して掲示し、住民に法令の周知徹底を期したところである。【出典:『説明石柱』(八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会)】
由義神社の西方、公園横にある。雑木の繁みの中に「高松信重墓」とある。応仁文明の乱に、細川勝元にしたがって、この辺で戦死したものと伝える。おこりの神としての俗信仰がある。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室・八尾市郷土文化研究会、1998年)より抜粋】
西暦六六七年天智天皇が対馬国金田城、讃岐国屋島城とともに築造された古代の山城、白村江の戦後、百済領に進出した唐の勢力の侵攻に備えたもの、 当時畿内の田の税である籾と塩を倉庫に貯蔵した、城域は高安山から信貴山にかけての山地に広がる。 大阪府側の急ながけは自然の防塁、高安山頂は高安烽跡、奈良県側の緩傾斜地には「高安城を探る会」によって昭和五十三年四月倉庫跡の礎石群が発見されている【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
昭和53年(1978)発見 奈良県平群町久安寺字金ヤ塚 奈良時代前期 西暦六六〇年、唐と新羅は連合して百済を攻め滅ぼした。救援を求められた斉明天皇や皇太子中大兄皇子は九州へ向かったが、天皇は九州で急死、百済へ向かった日本の水軍も白村江の戦いで唐の水軍に完敗した。この緊迫した状況のもと、天智天皇は六六七年、近江大津宮に遷都、そのいっぽう、ここ高安山に高安城を築いた。対馬の金田城、九州大宰府を守る大野城や基肄城、瀬戸内の屋島城などと並ぶ日本防衛のための大規模な古代山城である。この高安城を一三〇〇年たった今、高安城を探る会が倉庫跡礎石六棟分を発見、城の所在地を確認した。高安城には築城後、畿内の田税である穀と塩を蓄え、非常時に備えたが、六七二年の壬申の乱で倉庫は炎上、その後天武・持統天皇の時代に修築され、文武天皇の七〇一年に廃城となったと、『日本書紀』や『続日本紀』に見える。この倉庫は六棟の内の2号棟で、橿原考古学研究所が昭和五七年三月に発掘した。この時、礎石の下から平城京跡で発見されているものと同じ暗文入りの盤(大皿)や杯が多数出土した。この土器の年代から、これらの礎石は奈良時代前期、七二〇~七三〇年代のものと判明した。3号棟も昭和五八年三月に発掘され、同時期と判明した。ただ、ここでは礎石を取り巻く形に掘立柱列がめぐっているのが発見された。【出典:『高安城跡倉庫礎石群・ステンレス製説明板』(高安城を探る会、1996年)より抜粋】