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神社・仏閣

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本堂

きたむき おねがいじぞうそん
北向き お願い地蔵尊

願文 一樹の陰に宿り一河の流れを汲むも皆是れ他生の縁とか申す通り私共東山新町九丁目住民はお互その生地職域を異にし乍らも同じく聖徳太子ゆかりのこの地に水住の居を定めて日々親しいおつきあいを致して居りますことは想えば誠に浅からぬ因縁かと存じます 今後益々その親睦を深めより一層相互の融和をはかるよすがとして此の度町内に清浄の地を選び地蔵菩薩の御尊像を安置し奉りて町内各家の家内安全厄災消除家運隆昌子孫長久等の諸願をこめて永くお祠り致すことと相成りました惟いまするに「佛身は法界に充満して普ねく一切群生の前に現じ縁に隨い感に赴いてあまねからずと云うことなし」との佛説を固く心に念じてこれより以後私共町民は老若男女幼な子に至るまで毎日交々に香華燈燭絶することなく朝な夕な合掌禮拜敬虔なお祈りを捧げ続けることにより必ずや菩薩権化の御冥助あらたかなるものあることと深く信じるもので御座います   茲に本月本日吉日を卜してその開眼のおつとめを相営みまするに當り謹んで御名を「北向きお願い地蔵尊」と稱え奉り恭しく御真前に茶菓等の淨供をお供えして懇ろに御回向供養を致すもので御座います。伏して願くばこの功徳勝因によりまして地蔵菩薩様何卆私共町民のこの眞情を御照覧哀愍され給うて永くこの座に鎭り下され六道能化の慈悲の御手を私共の上に差しのべられますようお祈り致すと共に町内安穏町民各々の諸願慈く成就下されますよう専心お願い申し上げます 【出典:『北向きお願い地蔵尊 願文』 (八尾市東山本新町9丁目住民一同、1977年)】

重成・左馬介の墓

きむらしげなりのはか
木村重成の墓

大坂夏の陣で戦死した重成の墓は、もとはここから東五〇メートルの地点にあったが、 昭和四二年第二寝屋川の開削工事により、その川筋にあったのでここに移された。  この墓は、宝暦一四年(一七六四)重成の一五〇回忌にあたって、重成の首を落とした安藤長三郎の子孫で、彦根藩士安藤次輝が建てたもので,昭和一四年大阪府の史跡として指定されている。【出典『史跡の道・説明石板』八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市・八尾教育委員会、1983年】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

説明板

きゅうほうじじないまち
久宝寺寺内町

久宝寺は、戦国時代に寺内町として建設された、450年以上の歴史を持つまちです。蓮如上人は、文明2年(1470年)の河内布教の際、「帰する者市の如し」といわれるほど帰衣する人が多かったので、この地に西証寺を建立しました。西証寺は後に顕証寺と寺号を改め、天文10年(1541年)頃にこの御坊を中心として久宝寺寺内町が誕生しました。ここには多くの真宗門徒が集まって自治を行い、また商工業者も集まって経済的に繁栄していました。久宝寺寺内町には江戸時代の絵画が残っており、昔のまちの構成を知ることができます。寺内町は環濠と土居で囲まれ、まちへの出入りは6か所の木戸口から行われており、内部は東西に7本、南北に6本の道路が碁盤目状に走っていました。このような町割りは現在でもほぼ当時のまま残っており、貴重な歴史的遺産として注目されています。また江戸時代から現代に至るまでのさまざまな様式の町家がみられ、この中に社寺や土蔵、あるいは道標、地蔵堂、水路などが通りのアクセントとなってつくられる久宝寺の町並みは、450年以上の歴史を今に伝える生きた歴史の教科書といえます。  【出典:『久宝寺寺内町ご案内 まちつややか 説明板』 (八尾市)】

石板

きゅうほうじじょうし
久宝寺城址

久宝寺城は室町幕府に仕えた渋川満貞の居城と云われる。満貞は畠山満基の長子で、渋川郡を領したことから渋川と称した。麟角堂を創建し又毎年七月十四・五日は城内で精霊祭を催し、領民は五日間盆踊りをしたと言う。満貞の嫡子の光重は播州安井郷を受領、安井と改姓し、定重の時に織田信長に仕えたが、天正五年、光佐顕如上人の本願寺兵に攻められ、城は陥落した。城址は寺内町西北の出隅に「城土居」の地名を残している。 「久寶寺村誌」より  【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、角谷彰彦 文、乾房子 書、1996年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

説明板

きゅうやまとがわのていぼうあと
旧大和川の堤防跡

御野縣主神社の境内には、社殿の西側に長さ63mにわたって、旧大和川の堤防跡が残っています。 江戸時代、宝永(ほうえい)元年(1704年)の付け替え前の大和川の川筋は、二俣付近で、二つに分かれており、その分流の一つが現在の玉串川です。 現在の玉串川の川幅は、神社の西側付近で5m位ですが、付け替え前の川幅は200m近くもありました。この堤防跡は旧玉串川筋の東側の堤防の跡になります。江戸時代の初めには、川底がまわりの土地より高い天井川(てんじょうがわ)となり、たびたび堤防が切れて、洪水の被害をもたらすようになっていました。このため今米村(いまごめむら)(現東大阪市)の庄屋、中甚兵衛(なかじんべえ)らの尽力により宝永元年に付け替えが行われ、現在の川筋となりました。御野縣主神社の境内に残る旧大和川の堤防跡は、付け替え前の大和川の様子をしのぶ貴重な史跡になっています。また、堤防跡の南東側には、上水道の整備が行われる以前に、天井川となった玉串川の湧き水を簡易水道(かんいすいどう)として利用するため、上之島の人々が設けた親井戸(おやいど)の跡も残っています。【出典:『ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会 2004年)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

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