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この地は旧大和川が、いまの玉串川と長瀬川に分水するところである。宝永元年(一七〇四)十月今米村(旧河内市、現東大阪市)の中甚兵衛らによって四十数年にわたる請願が遂に幕府を動かし、いまの大和川へ川筋が付替えられた。その後、この地一帯の旧河川敷は東弓削、弓削の人々によって開墾されて、「二俣新田」と名付けられ地名となった。【出典:『史跡の道・説明石板』八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
孫四郎忠彦は、相模の人で新田義貞の家臣であった、弓の名人であったと伝えられ、足利尊氏が四海から大兵を携して東上するや、これを和田岬で拒けた。 後この地の住人となり、本間垣内の小字もあり、今に子孫の本間家がある。 この二伯の五輪塔は、孫四郎の墓と伝えられ、梵字一字があるが判読は不明、鎌倉時代に属する。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1975年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
高安の馬場ともいう。この東高野街道から玉祖神社までの参道のうち、街道に面して立っている石の大鳥居から東へ入って五百メートルの間には、むかしは美しい松並木であった。 しかし寄る年波と、大気の汚染によってか、年年枯死するものあり今はない この地は、寛正元(一四六〇)年、畠山政長と義就の争いの時、義就は大和竜田にいた政長を攻めるためここに出陣、二手に分れて竜田に向ったが、神南備山の大合戦となり敗退した。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
墓石群中,総高80cmの舟形光背の中に宝篋印塔形を薄肉彫している。塔身部の月輪の中に阿弥陀の梵字「キリーク」を彫っている。基礎部に銘文があり、天正元年(1573)9月8日の造立であることがわかる。【出典;八尾の史跡(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会・1998年)
式内社御祖神社が明治41年2月まで鎮座していたが、同年2月10日郷社玉祖神社に合祀され、現地には昭和13年5月に建立された「式内御祖神社跡」という碑がのこされた。地元では山王の森と呼ばれている。これは江戸時代、大窪村の氏神を山王大権現社といったことによる。小字は比恵森という。おかげ灯籠は花崗岩の小型のタカ灯籠で、台座に“おかげ”と大きく陰刻されている。竿は角柱で、表面に“常夜燈”とあって、側面に“天保二辛卯三月建立”とある。天保2年村人たちの伊勢神宮へのおかげ参りの記念に建立されたもので、市内では唯一の記念物である。おかげ参りは、江戸時代の末に盛行し、殊にこの天保2年(1831)はその当たり年であった。庶民の間に流行し、“一生に一度はお伊勢参りを”ということが習慣となった。老若男女、貴賤貧富となく何十人と群集して参宮し、途中の参加者も加わって、時には何百人の群集となった。またこれらに伴ってぬけ参りも盛んに行われ、これらの人々に道筋の各家では色々の施し物をした。大窪の村人たちが、天保2年3月おかげ参りに参加して、その記念としてこの石灯籠を献じたものである。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】