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三好長慶は戦国武将で細川晴元の内衆として活躍。永禄三年畠山高政を追放し河内国の実権を握って畿内を制圧したが永禄七年(一五六四)病没、真観寺で葬儀が行われた。長慶の甥義継は永禄六年三好家の家督となるが天正元年(一五七三)織田信長に攻められ自刃。境内の二基の宝篋印塔の基礎部は返花式で和泉砂岩を用いる。銘には各々の法名と没年月日が刻まれ三好系図、鹿苑日録、讀史備要等の資料から両者の墓と確定できる。 三好長慶墓銘 永禄七甲子 聚光院殿大禅定門 七月初四日 三好義継墓銘 天正元載癸酉 般若院殿大禅定門 十一月十六日【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、1998年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
守屋大連を葬ったところと伝えられ「河内名所図会」には、塚状の丘の上に一本松のある姿が記されている。明治のはじめ、堺県知事小河一敏が、ここに守屋顕彰の碑と石灯籠を建てた。昭和十二年守屋の千三百五十年祭には日本書記の一節を刻し、裏面に追悼文をきざんだ碑を建て、右側に石灯籠を献じた。墳の前は、旧奈良街道ですなわち国道二十五号線がある。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
旧大和川の堤防の一部がつぶされずに残ったものといわれる。堤防上の狐をまつる小さなほこらの土地が最後まで残ったものであろう。戦前の旧制八尾中学校、戦後の大阪府立八尾高等学校の校庭の隅にあって、多くの生徒たちの姿を見守ってきた。旧八尾中、八尾高校100周年にあたって校舎の建て替えで、現在は校舎の中庭にとりこまれることになった。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室・八尾市郷土文化研究会、1998年)】
もとは熊野神社の境内にあった石仏で凝灰岩の石棺材を利用した石棺仏である。総高一.一五メートル下幅〇.六〇メートルの舟形をつくり蓮華座をもつ半肉彫りで、右手をあげて施無畏印、左手胸前にて薬壺を捧げる如来像である。像の周囲にある十五の梵字は薬師曼荼羅をあらわし、作風から見て室町時代の造立である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会、1985年)】
*説明には一部現状と異なる場合があります。
むかし、この付近には矢無田村があったので、その名が残っている。
花崗岩製。高さ一〇四センチメートル、巾五十二センチメートルの舟形光背をつくり、像高七十六センチメートル、巾二十六センチメートル、厚さ八センチメートルの地蔵立像を陽刻している。
肩の線から上は折損しているので別石で後補している。
右手の錫杖の欠損している先は蓮華花となっている。
地蔵と観音の両方のご利益を願ったかどうかは分からない。
伝承によれば、この石仏は大阪城構築のときの積残し石に仏像が彫られていたので持ち帰り祀ったといわれるものである。
【出典:『八尾の石仏』八尾市教育委員会、谷野浩 1987年】