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楽山(ぎょうざん)上人は、江戸時代後期、木戸村(八尾市東本町)・清慶寺(融通念仏宗大念仏寺末)の住持であった人で、「八尾のお上人」とか「生き地蔵様」と呼ばれ、世人の尊崇を集めました。上人は、文化7年(1810年)、堺に生まれ、8歳で出家。20歳で清慶寺に来住し、荒れ果てた寺の復興に努めるかたわら、大和稗田(大和郡山市)の学僧・詮海上人に師事し、厳しい念仏求法の道に専心します。天保10年(1839年)、有名な楽山の大勧進が始まり、その念仏加持の力で幾多の霊験が示されると、清慶寺は念仏を授かろうとする人々で、門前市を成すほどであったということです。当時、寺内村(八尾市本町)に住んでいた『野史』の著者として名高い飯田忠彦も、上人に厚く帰依していたといわれています。弘化3年(1846年)、上人は請われて新清和門院(光格天皇皇后)の病を加持祈祷して治し、その折り賜わった品々は、今も清慶寺に寺宝として残されています。ところが、同じ年の11月、かねてより病弱であった上人は、37歳の若さで世を去ります。市役所南方の淨源寺墓地にある巨大な石地蔵は、楽山上人の墓であるといわれており、150余年を経た今も、多くの人々の信仰を集めています。【出典:『八尾市立図書館H.P 楽山上人』】
この街道はむかし大阪玉造と大和竜田を結ぶ重要な道筋にあたりこの辻には多くの茶屋が並んでいたのでその名がある。また在原業平と茶屋娘の恋物語りで名高い。 業平が峠を越え玉祖神社へ参詣の途中、福屋の娘梅野をみそめたが、ある夜東窓があいていたので中をのぞくと、娘が手づからでめしを食っているので、急に興ざめ逃げ帰った、娘は後を追ったが見あたらず悲んで渕に身を投げた。 この高安の里では、今でも東窓を忌み、これをあけると娘の縁が遠くなるという伝説がある。 この道を登ると水呑地蔵、十三峠がある。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
許麻神社鳥居前の辻堂内にあるこの地蔵は、亡父の追善供養のために造顕されたもので、像の左右に次の銘文がある。爲景 慧 禅定門追善 天文廿一壬子四月 日孝子敬白 いまは安産地蔵といわれている。像は中央部で折損しているが、後世つぎ固められている。材質は花崗岩で、高さ六二センチメートルである。 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
杵築神社の後方東側にあった小さな塚状の土地をいった。俗称を狐山、正式には佐堂生が塚という。宮寺の土壇の跡と考えられる。開発に伴い現在はその跡地に「佐堂生が塚跡」の石碑が立つ。もとここに,元亀元年(1570)の道智墓碑があった。今この墓碑は、佐堂墓地に移されて保存されている。これは舟形の花崗岩に、五輪塔を陽刻し各輪に梵字を記し、地輪に元亀元年・道智・八月廿八日の銘がある。【出典「八尾の史跡」棚橋利光著・八尾市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会編集】
城東貨物線は吹田市の吹田操作場から南下し放出(はなてん)に至る北線が昭和四年(一九二九)三月に、また放出―加美―竜華(りゅうげ)(現在のJR大和路線久宝寺付近)間の南線が昭和六年八月に、それぞれ貨物専用線として敷設された。その後、昭和十三年十月に竜華操作場が創設され、関西線、臨港線、和歌山線、城東貨物線からの貨物は、すべてここで仕分けされることとなった。一方、現在の八尾空港の前身にあたる大正飛行場が第二次大戦中に軍用飛行場となり、航空廠(こうくうしょう)が設置されたのにともない、竜華から加美・長吉を経て同廠に連絡する軍用鉄道線が敷設され、軍用機材を同飛行場へ輸送する役割を担った。沿線のお年寄りによると、田んぼの中に一直線に線路が光っていた。戦争が激しくなってくると、夜中に有蓋・無蓋の貨物列車が絶えず行き来するようになり、兵器や人を運搬していると思ったが、軍の機密を話すと拘束されるので、誰も知らないふりをしていたという。【出典:『平野区誌』(平野区誌編集委員会、平野区誌刊行委員会 平成十七年五月二十一日発行)】より抜粋 JR阪和貨物線廃線跡地を活用したまちづくり校区内の3箇所で市道と交差しているJR阪和貨物線(関西線八尾~杉本町)の鉄道事業が、平成21年3月末をもって廃止されました。総延長11.3kmのうち、八尾市域分としては約500mの区間となります。【出典:『竹渕小学校区地域レポート』(平成21年6月 コミュニティ推進スタッフ2009年)】より抜粋