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植松共同墓地由来:行基菩薩は幾内に多くの寺を建て、池を掘り橋をかけ布施屋を設けて仏教の布教と共に人びとの苦悩を救った。当時相つぐ天災に倒れた数多くの人のため河内に七墓を造り厚く葬った。この植松共同墓地もその一にあたり今に河内七墓詣りの信仰が伝えられる。【出典:『行基菩薩開基石版』(八尾市教育長 青井富三郎書識)】
恩智左近満一は恩智神社の社家の出で、この地の豪族として恩智城を築き、楠木正成方に味方した八臣の一人である。 湊川の戦の後は、その子正行を助けて南朝方を守ったが不幸にして延元二年(一三三七)七月熱病のため急死した。 傍の墓碑十六基は明治十年の西南戦争に官軍として従軍し、戦死した中河内近在の人々の墓である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】
*恩智左近の出身地などについてはいくつかの説があります。
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
恩智城は中世この地の豪族恩智左近満一が築いた。自然の高地を利用した城郭で高安連峰との間に堀をめくらせ前方に大阪平野を一望のもとにおさめた。 堀の中にかつては小島があったがそれはむかしの一の丸で現在の城址は二の丸の址という。 正平三年(一三四八)四條畷の戦いで楠木正行が戦死し恩智城も落ちた。 学制領布のときここに小学校が新築され、今では桜の名所として知られている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾教育委員会、1980年)】
*恩智左近の出身地などについてはいくつかの説があります。
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
用明二年(587)に厩戸皇子(うまやどのおおじ)(聖徳太子)をはじめとする皇子達と蘇我馬子(そがのうまこ)らは、渋河の地で物部守屋(もののべのもりや)の軍勢と戦います。稲城(いなき)を築き、榎木の上から弓を放つ守屋に苦戦した皇子らは三度退却しますが、四天王に祈願すると、迹見赤檮(とみのいらい)の放った矢が守屋を討ち、皇子と馬子らは勝利したと『日本書紀』に記されています。大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)の周辺にはそうした史跡が残されており、鏑矢塚は、迹見赤檮が守屋を射た矢を埋めたと『大聖勝軍寺略縁起』(1455)は伝えています。鏑矢とは、先端が植物の「かぶら」のような形をしている矢のことです。『日本書紀』にはみられませんが、太子信仰や八尾の歴史を考えるうえで重要です。【出典:『ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会、2010年)】
*説明には一部現状と異なる場合があります。
明治二年一月二十日、河内県役所が大阪市鈴木町に設置され、同年四月二十二日役所は当地大信寺(八尾御坊)へ移され、対面所が役所にあてられた。 しかし、この役所はわずか八カ月で堺県へ合併され、出張所として残されたが、同年九月七日廃止された。 なおこの地には、明治二十八年(一八九五)大阪府立第三尋常中学校(現八尾高等学校)が仮校舎として開校した。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】
*説明には一部現状と異なる場合があります。