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不断山善光寺と称し一光三尊の阿弥陀如来を本尊とする。元善光寺ともいい、本田善光が難波の堀江に於いて仏像を感得し、信濃へ帰る途中ここに一泊し、まずその分身をまつり庵をたて翌年再び訪れて当寺を建立したものと伝える。 境内には府天然記念物の大樟樹があり不断梅、信濃柿とともに三名木としてその由緒を語るものがある。 毎年四月、九月の十六日には盛大なお通夜行事が行われ翌朝ご本尊の開帳がある。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
服部川に鎮座する。神社沿いの池・鳥居の赤・大きなくすのきの緑のコントラストが美しい神社です。境内にそびえるくすのきは、八尾市指定の保全樹木です。他にも祠が二つあります。
別宮八幡ともいわれ、式内社で経津主命をまつる。 この地一帯は古くから矢作連の居住地で、その祖神をまつったものである。石鳥居には「矢作神社」とあり、境内の石灯篭には「八幡宮」となっている。 境内には慶長十四年(一六〇九)銘の経碑がある。東方の田んぼのなかに塚があり、この附近から室町時代の古瓦片が出土した。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
式内社で、もと牛頭天王と称され、渋川六座の一である。この地は古く巨麻荘といい、河内国諸蕃の大狛連の住地で、その祖神をまつったと伝えられる。 境内の手洗いの屋形は、むかしの宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残りである。 この寺は、聖徳太子の建立で、戦国時代に兵火に逢って焼失した、 その後観音院のみ復興したが、明治初年廃寺となった。本尊十一面観音はいま念佛寺にある。 神社の西方に、むかし弥生式土器を埋蔵したベントウ山があった。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
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