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神社・仏閣

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本殿

にしごおりはいじあと
西郡廃寺址

境内の手水鉢は西郡寺の塔刹柱礎石である。この地は綿織連の居住地で、その寺院の地といわれ、八間堂の字名がある。塔心礎は、高さ六〇センチ、縦一二〇センチ、横一六〇センチの自然石の中央に直径六七センチ、深さ三七センチの柱穴があり、その中央に直径二一センチ、深さ一八センチの舎利孔がある。白鳳時代に属し、昭和四九年大阪府から考古資料として指定された。 またこの境内から鎌倉時代の石灯籠の台座も出土した。【出典『史跡の道・説明石板』(八尾市・八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

鳥居

しぶかわじんじゃ
渋川神社

式内社で天忍穂耳命・饒速日命をまつる。もとは長瀬川の東岸にあったが、天文二年(一五三三)の大洪水で流失、元亀三年(一五七二)現地へ移されたという。 この地一帯は、物部氏の住地でこの社は古くは竜華寺の鎮守であったという。鳥居前の観音堂はむかしの宮寺の一部で、境内にある樹齢一千年という大樟樹は、玉祖神社(神立)善光寺(垣内)のそれとともに大阪府指定の天然記念物である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

鳥居

つるみしまじんじゃ
都留美島神社

①里中の開けた土地に鎮座する小社。この地はかつての由義宮の中心部に近く、また弓削氏の本拠地でもあつた。社名の都留美島の意味がよくわからないが、あるいは、この付近の三角州の微高地を呼んだ名前であろうか。現在の集落の西側、神社からは少し北西の方向に、神社の旧位置があつたとされている【出典:『延喜式神社の調査→都留美島神社』を参考】

 ②都塚:河内志に「荒墳五有都塚村有紙園塚、弁財天塚等号」などとある。都留美島神社の地を都塚、西方田圃中の塚を弁財天塚、北方村の入り口を大塚、融心寺内の塚を祇園塚と呼んでいる。古く10塚あったので、なまって都塚となったともいう。古瓦片が多い。神社は式内社で、もと南方にあったのを、ここに移したものと伝える。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

正門

じんぐうじ かんのういん
神宮寺 感応院

天川山感応院と称し真言宗高野山普門院末。古くは恩智神社の神宮寺として神社の境内にあった。 本尊の十一面観音像は国の重要文化財また絹本着色不動明王像は府の重要美術品としてそれぞれ指定されており、慈雲尊者裏書の十六善神像など寺宝が多い。 本堂の内庭は僧愛石の作と伝えられている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】
*ご本尊は不動明王です。

*説明には一部現状と異なる場合があります。

祭場

かづらじんじゃ
式内社 加津良神社

この加津良神社は「河内名所図会」では萱振村にありとしている。祭神は素戔嗚(すさのお)命であるが、現在は牛頭天王(ごずてんのう)と称している。疫病を治める神として祀られた。貞観九(八六七)年二月二十六日官社となる。昔は社地が広く、宮跡、神道森、鳥居、西松馬場などの地名が残っている。明治四十一年、栗栖(くるす)神社に合祀されたが戦後復活した【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1994年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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