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神社・仏閣

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八尾市指定保全樹木第一号 くすのき

きづきじんじゃ
杵築神社

弥生時代の佐堂遺跡内にある産土神で通称「佐堂のお宮さん」で親しまれている。祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)で出雲の本社から分霊したものと伝えられる。本殿は一間社春日造で覆屋内に鎮座する江戸時代中期の建築様式である。境内には享保十八年(一七三三)宝暦五年(一七五五)の銘のある石灯籠もあり由緒深い神社である。神社の後方には佐堂狐山という宮寺の土壇の跡があって、舟形の花崗岩に五輪塔を陽刻し、地輪に「元亀元年□道智□八月」の銘のある墓碑があったが今は佐堂の墓地に祀られてある。【出典『史跡の道・説明石板』八尾市・八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1986年】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

意満時 正門

いまんじ
意満寺

信貴道丁石 四丁石の立っている対面角にある…信貴道道標と丁石:旧高野街道の教興寺四つ辻は、高安信貴山道の起点であり道標が2本建っている。南西角の寺川家前の道標は、宝永5年(1708)のもので、市内の建設年次を記した道標としては一番古いものである。南東角の浅田家前の道標は、元治1年(1864)のもので、いずれも信貴山案内のものである。参詣道には一丁毎に丁石が建てられ、今も十数本の丁石が残っていて昔をしのばせる。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)より抜粋】

鳥居

あとべじんじゃ
跡部神社

由来:当神社は延喜式内社(今より約阡八十年前)人皇天皇第六十代醍醐天皇時代に延喜年間と言ふ年号が有り、通稱平安時代又は藤原時代と言はれております。其の初期にお祀りされておりましたのを今の跡部神社であり、その時に有りました神社を式内社と言はれております 又神社の創建せられました年月は不明でお祀りして有る御祭神もあきらかでありません 然し此の地は昔から古の跡部郷と言ひ阿刀連と言ふ人がおられました。それ故に阿刀の連と言人の祖先としてお祀りされたと言はれております。しかるに明治五年四月太政官公附で天照皇大神 伊弉册大神を一緒に合祀せられ同年に村社に列せられました 現在は天照皇大神 阿刀連大神 八王子大神の御三方の神様がお祀りしてあります 八王子大神様とは北亀井の里に小さなほこらにお祀りして有りましたが昭和の初期に神社に合祀されました 跡部神社の建造昭和四十八年十月正遷宮に建設す 【出典:説明石板』(跡部神社社殿竣工記念芳名石1973年)】

本堂

ねんぶつじ
念佛寺

当寺は龍興山金剛乘院念佛寺と云い、融通念仏宗に属します。暦応四年、(一三四一)辛己八月、盤龍上人によって創建されました。 本堂は落慶に融通念仏宗の中興上人法明和尚の霊跡があり、宗門きっての古刹です。もと、この寺院は聖徳太子の建立した久宝寺の末院で、念佛勧進聖堂場として栄えていたのをのち、聖僧の盤龍が今の地域に定めて本堂を建てたと伝えられています。聖徳太子作と伝わる十一面観音菩薩・不動尊もお祀りしています。また、河内西国霊場第二番札所でもあります。
(年中行事)
  二月三日、節分会護摩法要(星祭り)
  三月四日 十一尊天得如来 御回在
  八月十七日 お盆施餓鬼法要
【出典:『念佛寺 説明板』】

正門

らいおんじ
来恩寺

①当山の縁起は、現在の地に江戸中期より来福寺として小さなお堂があったところで、1906年(明治39年)に、現在地より東南200メートル生駒山系の中腹にあった恩覚寺と合併し、以来、来恩寺と称するようになった。来恩寺(融通念仏宗)としての歴史は100年足らずだが、来福寺(浄土宗)、恩覚寺(真言宗)の合併の名残として、本尊の観音菩薩像の脇にそれぞれ、阿弥陀菩薩と弘法大師像が安置されている。また、元の観音像は移転の際、傷みがひどく現在は本堂に安置されず、新しい観音像と観音画像を祀られている。【『一心寺来恩寺H.P』より抜粋】

②来恩寺前の街道すぐ西に、自然石のままの「目ナシ地蔵」がある。一説に恩智城の見付石といわれている。今はここに地蔵としてまつられている。また、その西(恩智街道・東高野街道交差点側)に恩智神社石鳥居がある。(【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)を参考】

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