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神社・仏閣

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入口

やくおうぜんじ
薬王禅寺

このお堂には、中央に薬師如来、右に不動明王、左に弘法大師坐像、賓頭盧(びんずる)さんがおまつりしてあります。今を去る三百有余年昔、郡川山麓のこの地に高雄山薬王寺に奉安されていた薬師如来、並びに不動明王は霊験顕著なること古老の言い伝えがあり、遠近の男女の信仰すこぶる盛んでありました。しかし悲しいかな明治維新直後、無住となり、寺は荒れ、混乱の中、土地も人手に渡り、やがて廃寺となってしまいました。それ以来、本尊薬師如来、不動明王の尊像は、止むおえず一時、常楽寺境内に於いて仮奉安されましたが、わずかに雨露をしのぐ実状でありました。時移り昭和十五年、はからずも当時郡川に住んでおられた植田安太郎氏がある夜、不思議にも薬師如来の霊夢をこうむり、御子息の正治氏(現在、静岡県沼津市在住)と共に薬王寺の復興に専心されました。また時同じくして、当時この土地の所有者であった大阪市の田中新右衛門氏も薬師如来の霊夢をこうむり、篤信により、土地の一部を堂宇建設敷地として寄附を申し出られ、村民有志相謀り再建の念願を達成しようとしました。しかし時があたかも戦雲急をつげ為に涙を呑んでお堂の建設を見送らざるを得ぬ状態になりました。戦後十年、時世も落ち着き、平和の日を取り戻すと、薬王寺復興の時機も愈愈熟そうとし、檀信徒の長年の思いが念願成就されたものであります。薬王寺薬師如来、不動明王を帰依し以て薬師如来の身心安楽と併せて不動明王の阿字の本体に浴し、現在に至っております。【出典:『木製説明板』(常楽寺住職)】

薗光寺正門

おんこうじ
薗光寺

もとは玉祖神社の神宮寺で、神社のそばにありました。境内には高さ122㎝、幅62㎝の砂岩で作った十三仏の石造があります。下部には14人の女人の法名が刻んであり、十三仏信仰の女人講によって建立されたと考えられます。建立年代は記されていませんが、作風から桃山時代と考えられます。【出典:『中河内歴史探訪の道』(中河内地域広域行政推進協議会・八尾市教育委員会、2006年)】

鳥居

さかあいじんじゃ にざ
式内社 阪合神社 二座

延喜式では小社に列せられており、現在、瓊々杵命(ににぎのみこと)と彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)を祀っている。「三代實録」に元慶七年(八八三)「河内国正六位上堺神二従五位下ヲ授ク」とあり、古代は坂合部連(さかひべむらじ)の祖神を祀っていたと考えられる。坂合部連の祖は、「旧事本紀」に「火明命(ほあかり)十六世孫」とある。近世には、小阪合村の氏神として崇拝されていたが、明治四十年八月二十日矢作神社に合祀された後、昭和三十二年旧社地に復興した。楠根川を挟んだ南西側には、古墳時代の集落跡である小阪合遺跡がある。 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1994年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

鳥居

ながらじんじゃ
式内社 長柄神社

旧信貴道に面した長柄神社は、旧庄内村と東郷村の境にあり、祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)で、別に八言(やえ)事代主神とも言われ、大国主命の子とされている。古くから、小守勝手宮(こもりかってのみや)と呼ばれ、神の託宣(お告げ)をする神社と言われていた。延喜式の制に列し、祈年祭に鍬一口を加えられた由緒ある神社である。明治四十年十月九日、矢作(やはぎ)神社に合祀され、社域には、今も古木が残っている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、松岡裕子 書、1994年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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