本文へジャンプ

神社・仏閣

五十音順に並べ替える

時代で絞り込む:

【76件中 56~60を表示しています。全16ページ】 前ページへ 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 次ページへ

鳥居

たこちじんじゃ
竹渕神社

①天照皇大神宮を祭る。昔は水田の中、周囲を濠で囲まれた神社であったが、住宅地が接近してきたため、昭和44年、周濠(宮池)の一部を埋め立てて神域を広くし、まわりの住宅地との間に緑地帯をつくった。この宮池には龍神が住むと言い伝えられている。神社の森にある楠の大木が市の保全樹木に指定されている。竹渕の名は、神武天皇が長髄彦に襲われたとき、この地にあった大竹藪の渕にかくれ難をのがれたといういい伝えによる。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)より抜粋】  
②竹渕西2丁目の南端には、馬洗池跡の碑がある。大坂の役の時、関東方の兵が馬を洗い水を飲ませた池があったと伝える。また、昔の亀井村と竹渕村の境界の川に架かっていた永代橋が今、中央環状線亀井交差点の西の公園にある。文化3年の築造。出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)より抜粋】

本殿

ほうでんじんじゃ
寶殿神社

当社は、室町時代河内守護職であった畠山氏の小山砦から鬼門の位置にあったので、その守護神として創建されたと伝えられ、沼の産土神である。本殿は一間社流造で覆屋内に鎮座し江戸時代初期のもので、市内に残存する古い建築様式の一つであり同時代のものと考えられる珍らしい木造狛犬二対も保存されている。またこの付近は宝永年間の大和川付替え工事のときその川筋に当っていたが村民が一致協力して村と神社を護った。それ故に現在もこの付近は千両まがりと呼ばれている。【『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会、1986年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

正門

きょうこうじ
教興寺

獅子吼山大慈三昧院教興寺は秦河勝の創建と伝えられ俗に薮寺ともいわれている。 真言律宗西大寺の末寺で境内南方の寺池は臨池式大伽藍の遺構といわれ、鎌倉時代西大寺叡尊によって復興され文永弘安の役には蒙古降伏の大祈祷が行われた。 また永禄五年(一五六二)河内国守護畠山高政と三好義興、松永久秀とのいわゆる教興寺合戦により全焼 江戸時代浄厳和尚によって再興されたが明治十八年の台風で本堂が倒れ旧客殿を仮本堂としている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】

正門

こうみょうじ
光明寺

①当山正式寺号は紫雲山来迎院光明寺といい、1691年(元禄4年)秀山和尚の中興と伝える。阿弥陀如来を本尊とする融通念仏宗のお寺で、河内西国本尊の十一面観音は、霊験いちじるしく往古より、人々の厚い信仰を集めている。【『紫雲山 光明寺』より抜粋】
②融通念仏宗の光明寺の山門入り口の地蔵堂に、総高108㎝、幅73㎝、の舟形光背に、像高78㎝の地蔵立像が安置されている。室町時代末期のものであろう。名号板碑は、片麻岩製。頂部のとがった高さ180㎝のもの。中央に南無阿弥陀仏の六字名号と天正12年10月15日の紀年銘があり、その下に多数の法名が刻まれている。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)より抜粋】
③境内に建つ「中高安(なかたかやす)小学校発祥の地」の石碑。1872年(明治5年)小学校教育が始まったとき、この地区では光明寺が学舎として選ばれている。歴代の住職が漢学、儒学を教えるなど、地域の文教とかかわりが深い。【『紫雲山 光明寺より抜粋】

【76件中 56~60を表示しています。全16ページ】 前ページへ 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 次ページへ

このページのトップへ