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あごなしじぞうそん
あごなし地蔵尊

久宝寺御坊(顕証寺)前の地蔵堂内にある。総高41cm舟形光背に高さ14cmの蓮華座を彫り出し、その上に立つ像高22cmの地蔵二尊仏で、双体道祖神を想わせる像容である。像の左に“をきのくに あごなし地蔵”と陰刻されている。あごなし地蔵は隠岐島の小野篁作といわれる地蔵が本家である。口の中が荒れたり、虫歯で痛んだ時に祈願すればなおしてくれる地蔵である。地方によっては、全快すれば「お名前をひろめます」と約束し、板に「隠岐国あごなし地蔵菩薩口中一切願成就業年男」と書いて四辻に建てるところもある。【出典:八尾市史紀要第10号『八尾の石仏』(谷野浩著・八尾市教育委員会文化財室1987年)より抜粋】

石板

あぶらかけじぞう
油掛地蔵

古くこのあたりは、真観寺の敷地で、住持がこの地蔵を堺からここまで運んだが、ここで動かなくなったという。材質は花崗岩で高さ一一六センチメートル 右に爲□□寛尊大徳建立 左に文明十三年辛丑十二月十八日とある。仏身全体がまっ黒なのは油をそそいで願いをかけると効験があるというのでこの名がある。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石板

いいだただひこきゅうせいちあと
飯田忠彦旧棲地址

八尾の地十三ケ村の大庄屋飯田家の屋敷址である。忠彦(一七九八-一八六〇)は徳山藩士生田兼門の二男で、縁あって飯田家の養子となった。非常な読書家で、二階で読書に耽ったところから二階先生と呼ばれた。若くして、「大日本史」を読んで発奮、勤王の志厚く、有栖川宮家に仕えたが、安政の大嶽(一八五八)に連座し、また桜田門の変(一八六〇)で再び捕えられて自殺した。墓は京都龍源寺にあるが、野史二九一巻をはじめ、門跡伝、諸家系譜などの名著もあり、幕末の歴史家として名高い。 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石板

いなきのあと
稲城址

聖徳太子が物部守屋の館のあった阿都の桑市を攻めたとき、守屋は兵を集めて、この地に稲城を構えて抗戦したという。稲城は稲で囲った城とか、稲積みの城であつたとか伝えられる。
この碑は昭和十四年建立された。
【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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