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にしぐちじぞうそん
西口地蔵尊

平野口地蔵尊とも云う。平野口は顕証寺の門前から北西にある辻で、旧八尾街道にある。寛政年間(1790年代)お逮夜市の日に南町焼けといわれる大火がおこり地蔵堂が焼失したので、現在地に移された。ここは火災のときの火元であったと云われる場所である。花崗岩製。像高30cmの地蔵立像であるが、要望は磨滅し、不鮮明である。【出典:八尾市史紀要第10号『八尾の石仏』(谷野浩著・八尾市教育委員会文化財室1987年)より抜粋】

にしぐちどうひょう
西口道標

平野から八尾へ通じる古い八尾街道は、一度久宝寺の町中を通って、八尾へ抜けています。西口から入ると道はすぐ家に突き当たりますが、それを北に折れてすぐ一つ目の通りを東へ行きます。この通りを表町通りといいます。西口から表町通りへの折れ口のところに文政8年11月建立の道標があります。「左、平野、大阪道」、「右、八尾地蔵、信貴山」とあります。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)より抜粋】

石板

にしむらいちろうえもんしょうとくひ
西村市郎右衛門頌徳碑

宝永元年(一七〇四)の大和川の付替えで、旧大和川流域の灌漑用水が乏しくなったため、流域の村々は新大和川から井路川へ水をひくことを請願しましたが、許可される前に大旱にあい、農民は困苦にあえいだ。このため弓削村の庄屋西村市郎右衛門は、幕府の許可を待たずに二つの樋を開いて農民を救った。捕えられ大阪城中で客死、家財没収一家は断絶となった。志紀、大正地区では、旧盆のころ「功念仏踊」を踊ったが、これは市郎右衛門の霊を慰めるためという。大正五年顕彰碑が建てられたが、外環状線道路工事のため、昭和四十五年九月現地へ移された。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石板付近

ひがしこうやかいどう(かいちいちりづか)
東高野街道(垣内一里塚)

俗に京街道、高野道といい、伝えによると白河法皇が弘法大師三〇〇年遠忌に参拝のとき、河内石川の安助上人が開いたという。京都と高野山を結ぶ参拝路で、平安時代から鎌倉時代にかけては歴代天皇、諸公家たちが往来し、南北朝時代には京都と南朝方軍勢の出合い道であり、戦国時代には畠山一族、三好一族などの合戦の通路となった。この垣内一里塚は、その里程をはかるもので、数年前までは善根寺、四条、楽音寺にもあったが、いまはここだけである。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

東高野街道・恩智街道 交差路

ひがしこうやかいどう・おんぢかいどう
東高野街道・恩智街道

東高野街道は京都から高野山参りをする東側の街道で、この名がつけられているが、地元では京都への道ということから京街道と呼ばれてきた。 ここは、東高野街道と恩智街道の交点であり、二本の道標がある。 その一本は恩智の人達が建てたもので、文字、彫もよく この地の人達が旅人に親切であり、道路を大切にしていたことを感じる。 恩智街道はここから曙川を通って、国鉄八尾駅までの道である。明治二十二年大阪鉄道(国鉄関西本線)の八尾停車場が開設されると、この街道の通行者が多くなり なかでも大阪からの信貴山参りの人達がこの道を利用したため、大正時代には荷車に加えて自動車が往来するほどにぎわった道である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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