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石柱

えんほしゃあと
簷葡舎跡

叡山で天台教学を修め、京都で貫名海屋・染川星厳・賴山陽に学んだ佛蓮が、天保八年頃、植松・松林寺に来住して開いた幕末八尾を代表する私塾であった。【出典:『説明石柱』(八尾市教育委員会)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

石板

おたいやいち
お逮夜市

八尾御坊(大信寺)と久宝寺御坊(顕証寺)との間につづいた露店市である、現在は交通事情のため、八尾御坊の境内、御坊前の道路上に露店商が店をならべ、苗物、農工具、古着、荒物、雑貨品などを売り買物客でにぎわっている。 むかしは大和方面からも買物に来たという。 お逮夜の起源は明らかでないが、毎月二十七日は宗祖親鸞聖人の逮夜日にあたり、その法要に参拝する人々を目当てに開かれたのでこの名がある。 十一日にも開かれているがこの起源は明らかでない。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

垣内共同墓地

かいちきょうどうぼち
垣内共同墓地

垣内、教興寺、黒谷、郡川、服部川、山畑地区の共同墓地で、行基のつくった河内七墓の一つである。戦国時代末期の小五輪塔や、江戸時代前期の年号をもつ名号板碑などが多く残っている。墓域の東側の高台には、高さ二メートルを越える大きな五輪塔が建立されている。空・風・地輪は後世のものであるが、火輪は軒反りも力強く鎌倉様式で、水輪も大きく重厚なものである。全体的にもつりあいがよく、整然とした五輪塔で、市内でも代表的な石塔といえる。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、甲斐房之助 書)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

楽音寺墓地

がくおんじぼち いたひ
楽音寺墓地 板碑

板碑:花崗岩製。総高94㎝、幅40㎝程の船形をした石の表面に、大きい宝篋印塔形を薄肉彫している。基礎部の堅枠に、元亀元年9月19日、阿闍梨実盛の陰刻がある。西暦1570年の造立である。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

祠

かみのしまのべついしにそんぼとけ
上之島の別石二尊仏

大阪府立山本高校のテニス場の東側の道路に面して別石二尊仏が祀られている。高さ八十五センチメートル、下巾六十六センチメートル、厚さ三十センチメートルの同じ大きさの石材を、夫々三角形につくり、その表面に像高五十八センチメートルの如来坐像が陽刻されている。向かって左は法界定印阿弥陀仏、右は薬師如来である。石材は凝灰岩で二つの石仏は同じ石大工により造立されたものであろう。やや磨滅しているが磨崖仏を切りとったようで、丸味があり体部の肉づけもよく重圧さがうかがえる。鎌倉時代末期ごろの造立ではなかろうか。この付近は昔竹籔が多く、耕地整理したとき偶然に発見されたもので、初めは近くの臨済宗妙心寺末の中正寺門脇に安置されていたが、七年前地蔵の所有地であった現在地に移されたものである。諸事祈願を成就してもらえる石仏として附近の信仰は厚い。【出典:『八尾の石仏』(谷野浩・八尾市教育委員会編集発行1987年)】

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