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本堂

しぶかわじぞうそん
渋川地蔵尊

由緒―元文三年(西暦1738)再建 天力明五年三月、文化十三年四月 明治二十九年五月、昭和三年八月、昭和五十四年十一月復旧工事 平成七年八月吉祥新築

釈迦寺山碑

しゃかでらやま
釈迦寺山

ここは釈迦寺と称する寺址で最近までは高さ一メートル周囲六メートル四方の土壇に現存する石碑と五輪塔が祀られてあった。亀井の古刹真観寺文書によれば畠山昭高の創建とあるが、文永五年(一二六八)八月大和西大寺の叡尊上人が同寺の末寺であった千光寺の釈迦堂にて十重禁戒を講じ、六百五十人に菩薩戒を授けたことからその遺址とも考えられる。附近から鎌倉・室町時代の古瓦片が出土する。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、1987年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石板

じゅうさんかいどう
十三街道

十三街道は大阪玉造から十三峠までの道で大阪から竜田、奈良へ通う道として、また、山腹にある水呑地蔵さんへの参詣道として多くの人達に利用された重要な街道であった。ここにある道標はもと桂解放会館の東側あったもので、もとの場所は会館前で道が二回曲っていたため、二本の道標で、道案内をしていたが、道路整備の際にここに移されてきたものである。この道標は建立者の父の五十回忌の供養に建てられたもので、供養塔と、記されたものとしては市内で唯一の貴重なものである。【出典『史跡の道・説明石板』八尾市・八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

十三峠付近からの眺望

じゅうさんとうげ
十三峠

①大阪玉造から深江、高井田を経て、神立から大和の龍田に越える峠をいう。文久3年(1863)8月、伴林光平が、大和天誅組の旗上げの時、大阪玉造に和歌の教授に来ていて、十六日の夜半その通知をうけて、直ちに脚気の重い足を引きずるようにして、急ぎこの十三峠を越えて、大和畝傍にかけつけたのである。大阪玉造と大和龍田方面とを結ぶ最も重要な街道筋の峠に当る所である。明和2年の峠の地蔵と天理教小寒さんの碑がある。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】 

②十三峠の石仏:十三街道は、八尾市神立と平群郡を結ぶ道筋で、近世には大坂から伊勢参宮のルートとしても賑わった。その峠には旅人安全を願って福貴畑の村人により立てられた地蔵石仏(明治2年:1765)があり、街道の道標(元禄2年:1689)や松尾寺への道しるべも並んでいる。峠の北側には名称の起こりとなった十三塚があり、重要文化財に指定されている。このルートは「業平道」とも呼ばれ、平安初期の歌人で六歌仙の一人、在原業平が天理より神立の女性の元に通った道ともいわれる。平群町では、中部コース「十三街道と業平ロマンの道」の愛称で案内板を整備している。【出典:『木製説明板』(平群町福貴畑)】 

地蔵堂

しゅみいじぞう
シュミイ地蔵

名前の由来はわからないが、地元恩智の有志が結集して菩提追善のため、彼岸の中日に建立したものである。高さ一三六センチメートル、幅六七センチメートル材質は花崗岩である。像の左右に次の銘文がようやく読みとれる。良盛長盛道梁妙見也阿常助宗 父道善宗恩道明為脩門 道妙□阿妙法 天文十三年甲辰八月時正 河内国恩智□逆修一結衆 敬白【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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