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もとは北側の市道交差点にありましたが、道路拡幅に伴い、通行に危険なため、平成17(2005)年5月にとりのぞかれることとなり、二本の門柱のうち西側の一部が、保存されることになりました。この門柱には、「通用門」と彫られた大理石がはめこまれています。大阪航空廠は、昭和15(1940)年に、軍事用の飛行機の組み立てや修理・整備などを行う施設として、建設されました。現在の八尾空港は、太平洋戦争中は、大正飛行場とよばれる軍事用の飛行場でした。その西側の八尾市西木の本から大阪市平野区長吉の一帯が大阪航空廠で、約二千人の人々が働いていました。その中には軍人や技師だけでなく、近くの村から集められた人々や、大正校区の生徒・児童たちも働いていたといわれています。戦争中の人々のくらしを後世に伝える、八尾市内の数少ない遺産の一つとして貴重です。平成17年6月八尾市教育委員会 文化財課【出典:『ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会、2005年)】
*説明には一部現状と異なる場合があります。
いま黒谷の旧庄屋坂本家の門前にある。江戸時代に幕府や領主などからの御達しやお触れ書きなどを板に写して、こうした高い所に揚げて示したからこれを高札といい、その場所を高札場といった。一般民衆にお達し書などを周知せしめるための施設である。年貢の免定を初め、禁止の条項とか、色々の法令を記したものなどが揚げられ、明治6年(1873)まで使用された。この高札場は、文字通り屋敷そのものが高くなっているため、高さ170㎝の石垣の上に、立派に瓦葺きの屋根をもって、正面幅150㎝の高札場が設けられていて、下から仰ぎ見るようにされている理想的なものである。先年まで大竹の松本家の門前にもあったが、今は市内ではこれが唯一のものである。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】
②信貴道道標と丁石:旧高野街道の教興寺四つ辻は、高安信貴山道の起点であり道標が2本建っている。南西角の寺川家前の道標は、宝永5年(1708)のもので、市内の建設年次を記した道標としては一番古いものである。南東角の浅田家前の道標は、元治1年(1864)のもので、いずれも信貴山案内のものである。参詣道には一丁毎に丁石が建てられ、今も十数本の丁石が残っていて昔をしのばせる。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)より抜粋】
昭和二十七年六月 大阪-八尾線道路改修のさい、字樋上から出土したものである。この地は久宝寺寺内町の今口門のあったところである。材質は花崗岩で、五輪塔の高さ六五センチメートル 地輪正面には明応二年癸丑 慶春禅門 四月二十二日 と刻まれており、その年号から推して正覚寺合戦のさいの戦死者の墓ではなかろうか。大阪(坂)夏の陣のさい、激戦のあったところで、東軍は東口と、この今口両道から久宝寺へ攻め入った。 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
河内七墓の1つで、五力村(神立・水越・大竹・大窪・千塚)の墓地として管理されている。墓石の中のひときわ大きい五輪塔は、総高2mある。各輪に梵字を刻み、地輪に、正和2年(1645)11月19日、大窪村の岩田氏の墓である大字がある。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】
神立地蔵堂(南小路の地蔵)内にある。神立集落の中、十三街道を水呑地蔵へ上がる登り口に当るところにある。総高115㎝、幅48㎝の舟形光背に像高83㎝の地蔵立像がある。江戸時代初期をくだらない地蔵と考えられる。この地蔵堂の前に、第一番の石仏がある。ここから水呑地蔵まで、33カ所、六十六番までの二対組み合わせの石仏が並ぶ。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】
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