本文へジャンプ

神社・仏閣

並び順を戻す

時代で絞り込む:

【58件中 56~58を表示しています。全12ページ】 前ページへ 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12

石板

りゅうげじあと
龍華寺跡

「続日本紀」によると神護景雲三年十月、龍華寺に 参詣された稱徳天皇が、ここで市を開いてその有様を遊覧され、またその際、綿と塩を施入されたとある。桓武天皇も、若江郡の一町六段を燈明料として寄進されたことが「類聚国史」に伝えられている。このように龍華寺は、律令時代の官寺として河内平野に甍をそびえたたせていた。鎌倉時代になると龍華寺は、河内源氏ゆかりの通法寺末として名をとどめていたが、やがて歴史から姿を消していった。現在、龍華寺の大門唐居敷が安中小学校西南十米の地中にねむっている。  【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、甲斐房之助 書】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

りんかくどうそうけんいひ
麟角堂創建遺址

“麟角堂創建遺址”の碑があります。戦国時代久宝寺城主渋川満貞の創建といわれ、堀川屋敷に学者を招き、講筵(こうえん)を設けたことに始まります。天正3年(1575)安井定重これを復興し、堺の学者今村道和を招いて、孔子像をまつり、漢籍の講義がありました。江戸時代には伊藤仁斎や東涯も招かれて講筵を開きました。大正2年安田覚三郎再び復興し、西村天因を招いて開講、同11年には私立学舎の認可を受けて漢学の講義を開いたこともありました。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)より抜粋】

地蔵堂

ろっかじぞう
六カ地蔵

六ヶ地蔵尊の由来:現在地は八尾市刑部二丁目一番地です。この御堂のある土地は小字茶之前と呼ばれています。北側の道は信貴山へ通ずる昔の道です。東側は旧大和川(玉櫛川)の西提でその堤下にあたります。地蔵尊の石材は古墳時代に造られた石棺の蓋を利用しています。地蔵尊の造られた時代は不明です。棺蓋は突起のない中形の刳抜式の家型石棺に属します。増田一裕氏の研究によれば七世紀中頃(六二五~六五〇)に造られたものとされています。岩室は淡灰緑色の流紋岩質凝灰岩で播磨国(姫路市から三田市)に分布する流紋岩質溶結凝灰岩の一部に似ています。古墳時代の後期に豪族を葬るために造られた石棺が時が流れ古墳も壊れ人目につくようになったのでしょう。平安時代の末から各地に石仏信仰が始まります。この地は刑部千軒といわれた時代に村の端に建てられたと思います。刑部千軒の遺物を示すものとしては昭和十七年に干害用井戸掘り工事の時地蔵尊の東 旧大和川から飲料水を取入れたと考えられる竹管が発見されています。昔から茶之前の地蔵さんと愛称され子供の霊を守り病気を救い村内に疫病の侵入を防ぎ道行く人々の安全をお守り下さるということでお詣りも大変多くありました。【出典:『説明石板』(八尾市市史編纂室室長 三上幸寿、大阪府立八尾高等学校教諭 棚橋利光、橿原考古学研究所所員 奥田尚、1980年)】

【58件中 56~58を表示しています。全12ページ】 前ページへ 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12

このページのトップへ