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やまもとつじしぞうとどうひょう
山本辻地蔵と道標

もと玉串川沿いにありましたが、道路拡張工事により、ここに移されました。正方形の台座の上に高さ70cm、幅36cmの船形光背に像高42cmの半跏相の地蔵石仏です。台石にも右信貴山、左立石越、文化六年十月建立俗名三太像と彫られています。道標を兼ねた石仏で、常時菅笠をかぶっています。隣にもう一体石仏が並んでいます。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)より抜粋】

石板

ゆげのどうきょう
弓削道鏡

弓削の地は道鏡の出身地である 道鏡は「俗姓は弓削連河内人也」と続紀に記され、若くして葛城山に登り、如意輪法、宿曜秘法を修め、看病禅師として名声を博し、孝謙天皇の病をなおし、信任をえて、ついには法王(皇)となった。 しかし称徳天皇の死去とともに失脚、下野国薬師寺の別当におとされ、宝亀三年(七七二)に歿した。称徳天皇がこの地に行宮を造られるにあたり、信任の厚い道鏡は弓削宮(由義宮)の造営の許しを得た。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

八尾木不動明王

よおぎふどうみょうおう
八尾木不動明王

宝永元年(一七〇四)五代将軍徳川綱吉の治世、この地方を水害から護るため、大和川の付け替え工事が行われた。そのとき出土した石材を村人が持ち帰り、由義神社の北の小川に橋として使っていた。
 ある日、農耕用の牛がこの橋を渡るのを嫌がったので不思議に思い、よく調べると石材に不動尊像の刻まれているのに気が付いた。さっそく村に持ち帰り、この地に堂を建立し祀ったのがこの八尾木不動明王である。
 以来、諸願成就・眼病・その他難病治癒に霊験あらたかで、近在諸郷の多くの人々の信仰を集めてきた。
 また、大祭日の八月二十八日に五穀豊穣を祈願して作られる「作り物」は、寛政年間(一七九〇)頃から始まったもので、農作物を主に使い、その伝統は、八尾の郷土文化として現在まで続き、高い評価を受けている。
 ここに謹んで八尾木不動明王の由来を記し後世に伝えるものである。
【出典:『八尾木不動明王由来 説明板』(八尾木不動講・寄贈者:辻工務店、1991年)】

芳沢あやめ墓碑

よしざわあやめぼひ
芳沢あやめ墓碑

芳沢あやめは、五代を数える江戸時代の歌舞伎役者である。初代芳沢あやめは、歌舞伎の女形芸を大成した江戸時代、元禄期の代表的歌舞伎役者である。このたび、本照寺の境内から二代目、三代目、五代目の墓碑が発見された。向かって右側が二代目の、左側が三代目、五代目の墓碑である。当寺は昭和四十三年以前は大阪市の谷町にあった寺院であり、芳沢あやめ家の菩提寺である。江戸時代の歌舞伎役者の墓碑が確認された例はあまりない。今回確認された二基の墓碑は、近世の芸能史を考える上で、大変貴重なものである。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、2003年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

来迎寺墓地

らいごうじぼち(じんぐうじぼち)
来迎寺墓地(神宮寺墓地)

神宮寺、恩智、法善寺などこの付近の共同墓地で、行基菩薩が作った河内の七墓の一つである。入口には戦国時代から江戸時代にかけての一石五輪塔が無数にあり、また墓地内には鎌倉時代に属する大五輪塔をはじめ、石造層塔や永禄元(一五五八)年戊午十月十五日の銘が読みとれる十三仏碑があって墓地の古さと、この付近が地方豪族の住地であったことを物語っている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会、1985年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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