[久宝寺寺内町]
久宝寺は、戦国時代に寺内町として整備された、450年以上の歴史を持つまちです。
蓮如上人は、文明2年(1470年)の河内布教の際、「帰する者市の如し」といわれるほど帰衣する人が多かったので、この地に西証寺を建立しました。
西証寺は後に顕証寺と寺号を改め、天文10年(1541年)頃にこの御坊を中心として誕生した久宝寺寺内町は、多くの真宗門徒が集まって自治を行い、また商工業者も集まって経済的に繁栄していました。
また、江戸時代の絵図が残されており、昔のまちの構成を知ることができます。
寺内町は環濠と土居で囲まれ、まちへの出入りは6か所の木戸口から行われており、内部は東西に7本、南北に6本の道路が碁盤目状に走っていました。
このような町割りは現在もほぼ当時のまま残っており、貴重な歴史的遺産として注目されています。
また江戸時代から現代に至るまでのさまざまな様式の町家がみられ、社寺や土蔵、あるいは道標、地蔵堂、水路などが通りのアクセントとなってつくられる久宝寺の町並みは、450年以上の歴史を今に伝える生きた歴史の教科書といえます。
[久宝寺寺内町燈路まつり]
久宝寺寺内町とまちなみセンター(寺内町ふれあい館)の「大阪ミュージアム登録」を記念して、「寺内町燈路まつり」が開催されました。
450年の歴史あるまちなみが次世代に継承されるよう、そして、現代に脈々と引き継がれて保全整備された姿を、幻想的な「光の回廊」を通じて、多くの人々に感じていただこうと企画されました(平成21年、平成22年9月)。
灯ろうの作成には中学生が参加し、灯ろうや灯火カップを飾る書画は、次世代を担う子ども達が心をこめて描くなど、地域の皆様が一致団結して開催されました。
約50分 約4.2km
※見物時間、休憩、及び直売所・施設・お店などの時間は含まれておりません。
※坂道の負荷時間は含んでいません。
※1分/80mを基準としています。
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弥生時代から古墳時代へかけての河内平野に遺跡についての案内で、「当地は、古大和川の長瀬川と平野川に挟まれた扇状地性低地にあり、東西1.6km、南北1.7kmに広がる久宝寺遺跡の一角を占めます。・・・」これは、平成17年10月8日やお文化協会が建立しました。
約6分 約0.5km
社名は「コマ」と読み、昔、この地は「許麻荘」といわれ(南西に跡碑がある)、高麗からの渡来民族が多く住んでいました。
式内社で、もと牛頭天王、渋川六座の1です。
境内の手洗いの屋形は、昔の宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残りです。
この寺は、聖徳太子の建立で、戦国時代焼失し、その後観音院のみ復興、明治初年廃寺となりました。
本尊十一面観音はいま念佛寺にあります。
約1分 約0.1km
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寺内町は周囲が掘や土居に囲まれ、土居は土で固められた城壁で簡単に人が寺内町に出入りできないようにしています。
南口の洗い場は、2段ほどの階段で水路まで降り、布団や蚊帳などの大きな洗濯物を入れた籠を持って洗い場まで行きました。
約1分 約0.1km
約1分 約0.1km
主屋は、嘉永元年(1848)の祈祷札が発見され、乾蔵とともに江戸時代末の建築です。
当時の建築様式を良く保っており、久宝寺寺内町で最も古い町家の一つとして、貴重なものです。
また、5棟の建造物全体が、寺内町の屋敷景観を良く残しています。
約1分 約0.1km
江戸時代には油屋と号し、久宝寺村の庄屋を務めており、村に関する貴重な文書等が多数伝わっています。
顕証寺に通じる東西の通りに面する主屋(おもや)は、屋敷構えを出格子(でごうし)と虫籠窓(むしこまど)で整え、瓦葺きの米蔵は屋敷の東側に建てられています。
約5分 約0.4km
この施設は、久宝寺寺内町の歴史的遺産の継承と八尾市のまちづくりについての地域活動の拠点として設置されました。
寺内町の説明・観光地図・資料・安井道頓の碑があります。
約1分 約0.1km
顕証寺(けんしょうじ)は寺内町(じないまち)の中心地、浄土真宗本願寺派で「久宝寺御坊」(きゅうほうじごぼう)と呼ばれています。
山門の屋根は切妻(きりづま)造、本瓦葺(ほんがわらぶき)の四脚門で、前後に軒唐破風を付けています。
切妻造の本瓦葺の築地塀は、表門が築地塀に対し境内側に位置するために鍵の字に折れて表門両脇に付いています。
約1分 約0.1km
説話:平安時代、小野 篁(おのの たかむら)は唐に派遣される命令にそむいたため、隠岐島へ流されました。
その地で阿古那(あこな)という娘が歯痛で苦しむのを見て篁が地蔵像を刻み阿古那に与えると歯痛が止まりました。
それから二人は深い仲となり一児を授かりますが、篁は罪を許され帰京します。
室町時代の文化財「絹本着色阿弥陀仏画像」(けんぽんちゃくしょくあみだぶつがぞう)があります。
約1分 約0.1km
河内西国霊場第ニ番 龍興山念仏寺、(平野の大念仏寺の末寺)暦応4年(1341)盤龍上人の創建です。
(鎌倉時代末頃)聖徳太子(作)が物部守屋への戦勝祈願で『十一面観音菩薩』を祀りました。
観音像は戦で伊賀から近江を転々とし許麻神社へ、その後神仏分離で戻りました。
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安産地蔵尊は念仏寺の門前に建っています。
建立された慶応4年(1868)には徳川慶喜が鳥羽伏見の戦に敗れて大阪港から江戸へ向かって船出した年です。
近くで大きな合戦があるのに寺内町は平穏だったといわれています。
約2分 約0.2km
約1分 約0.1km
約4分 約0.3km
久宝寺城は室町幕府に仕えた渋川満貞の居城と云われ、満貞は畠山満基の長子で、渋川郡を領したことから渋川と称しました。
麟角堂を創建し、満貞の嫡子・光重は播州安井郷を受領、安井と改姓、城は陥落し、「城土居」の地名を残しています。
約6分 約0.5km
昭和27年(1952)6月 大阪-八尾線道路改修のさい、字樋上(あざひのうえ)から出土したものです。この地(今口地蔵尊のお堂)は、寺内町の今口門のあった所で東口と共に八尾へ通じる道筋です。
また、長宗我部盛親物見の松があります。
ここを今口といい、古く久宝寺々内の今口門があって東口とともに八尾に通ずる道筋でした。
大坂夏の陣に大阪城から天王寺平野を経て進出して来た長曽我部盛親の軍は、この地にあった大きな松の木の上から、東方八尾方面の敵情をてい察したと伝えられ、昭和の初め坂本春湖ここに碑を建てて記念としました。
約1分 約0.1km
久宝寺小学校体育館敷地では、平成3年(1991)に発掘調査が実施され、竪穴式住居二棟をはじめ多くの溝や小穴が検出されたことから、弥生時代末~古墳時代初頭の集落の一角であることが判明しました。
久宝寺一帯は古代より水陸交通の要衝として発展してきた土地で、弥生・古墳時代の大規模な集落遺跡として知られています。
約3分 約0.2km
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札之辻地蔵尊は室町時代末期の石仏です。
また、寺井戸のある場所は高札場で、この井戸は村民の飲用水をまかない、水代として1軒当り年1升の米を久宝寺御坊(顕証寺)に納めました。
古くは屋形を組み、夜には錠が掛けられました。
大正12年(1923)簡易水道が設けられるまで、村内唯一の上水でした。
この橋の西ぎわに153cmの大きな道標が建っています。信貴山、柏原国分、大坂道、玉造道の表示があり、交通の要衝であったことを示しています。
また、この長瀬川はもと大和川の本流で古くは約200mの川幅があり、人と物資の運搬で川舟が往復しました。 宝永元年(1704)大和川の付け替え後は井路川となり、八尾と久宝寺の人々の共同出資で剣先船が人や米、木材などを京橋まで運び、年貢米の運送や、大阪、淀などへの往復でに賑わいました。こちらの八尾側の方を八尾浜むこうの久宝寺側を船着場とよび、ともに祭礼のときのお旅所でした。
約14分 約1.1km
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末広町4丁目にある延命地蔵尊です。
3体のうち向かって右の像は和泉砂岩製、高さ42cmの船形光背に像高22cmの地蔵立像で、天文賛廿一歳(1552年)と記されています。
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