心合寺山古墳を中心に、楽音寺・大竹古墳群を散策します。
※心合寺山(しおんじやま)古墳
古墳時代中期(約1600年前)につくられた中河内最大の前方後円墳で、全長が160mあります。
墳丘や埴輪などが復元され、つくられた当時の姿を見ることができます。
※楽音寺(がくおんじ)・大竹古墳群とは
心合寺山古墳を含めて、この周辺にある西の山・花岡山・向山・鏡塚古墳など古墳時代前期~後期にかけての古墳の集まりをこのように呼びます。
当時、この地域を支配していた王の墳墓と考えられています。
約90分 約7.2km
※見物時間、休憩、及び直売所・施設・お店などの時間は含まれておりません。
※坂道の負荷時間は含んでいません。
※1分/80mを基準としています。
約7分 約0.5km
昭和62年(1987)11月に開館しました。
市の歴史や伝統文化、市内の文化財を調査研究し、収集保存を図るとともに、展示などを通して広く公開する施設です。
常設展示室では、「大和川流域と高安山―その歴史と文化―」に関する資料を展示しています。
2階には「日本刀のできるまで」や「銅鐸の製作工程資料」を展示し、また河内木綿体験コーナーを開設しています。
休憩所に「力石」の説明板と力石が置いてあります。
約19分 約1.5km
心合寺山古墳の西方の東高野街道(旧国道170号線)沿いにある古墳で、墳丘は南側半分が削られています。
昭和33年(1958)採土中に、埋葬施設の粘土槨とみられる遺構や石棺のふたの破片、さらに後の時代の火葬跡とみられるものが見つかっています。
周辺から出土した円筒埴輪や朝顔形埴輪、蓋形埴輪から5世紀末頃の古墳と考えられ、心合寺山古墳の後の時代に造られた古墳です。
入口のところに宝山神社の碑があります。(府指定史跡)
約4分 約0.3km
5世紀前半につくられた中河内最大の前方後円墳です。
当時この地域一帯を治めた豪族の墓と考えられます。
墳丘は三段築成(さんだんちくせい)、くびれ部西側に「造り出し」があり、平坦面には円筒埴輪や朝顔型埴輪などが立て並べられ、斜面には葺石(ふきいし)が葺かれていました。
埋葬施設は、後円部に三つの「粘土槨(ねんどかく)」、前方部の「方形壇(ほうけいだん)」の下に木棺がありました。
後円部の粘土槨のひとつである西槨から、甲冑(かっちゅう)、き鳳鏡(ほうきょう)、刀剣類などの副葬品が出土しています。(国指定史跡)
約6分 約0.5km
西の山古墳から、南の谷をへだてて、古墳時代前期に造られた前方後円墳の「花岡山古墳」がありました。
元和元年(1615)5月の大坂夏の陣には、徳川秀忠がここに陣をとって東軍を指揮しました。
昭和30年代に消滅してしまい、現在は大阪経済法科大学正門傍に碑が立てられています。
約3分 約0.3km
古墳時代前期に造られた、前方部を南に向けた前方後円墳です。
かつては、楽音寺の村落がこの地の東の山麓にあり、古墳のある丘が「西ノ山」と呼ばれていたところから、古墳名として残っています。
明治14年(1881)、開墾中に後円部から朱塗りの石室が発見され、中から人骨、勾玉(まがたま)、刀剣、銅鏃(どうぞく)、鏡、玉類などが出土したと伝えられています。
約11分 約0.9km
向山古墳は、「楽音寺・大竹古墳群」のひとつで、古墳時代前期に造られた西向きの前方後円墳と考えられますが、詳細は不明です。
また、南側の池の斜面には、平安時代後半の向山窯がありました。ここで焼かれた瓦は、京都に運ばれ、宇治の平等院、京都の醍醐寺で使用されました。
約6分 約0.5km
古墳時代後期に造られた円墳で、埋葬施設は、両袖式の横穴式石室です。
大阪府下では最大級の横穴式石室で、有力な人物のお墓であったと考えられます。
家形石棺の破片や、ねじり環頭大刀、龍の模様が施された大刀、鉄地金銅張りの馬具、ガラス玉の首飾り、須恵器など古墳の規模にふさわしい出土品が見つかっています。(府指定史跡)
奈良時代の僧行基(ぎょうき)が開いたといわれる河内七墓の一つで、五ヵ村(神立・水越・大竹・大窪・千塚)の墓地です。
墓石の中のひときわ大きい五輪塔(総高2m)は、各輪に梵字を刻み、地輪に、正和2年、大窪村の岩田氏の墓である大字があります。
弘化2年教恩寺の住職になりましたが、国典を講じ、和歌を教え、御陵の調査に専念、大阪・河内・大和に門人多く、書画をよく嗜みました。
生前十三街道を通っており、河内の有志がこの墓を建てました。
高安十一カ村の氏神で、祭神は櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)です。
この地に玉造部の人々が住んでいたので、その祖神を祀ったようです。
寺宝も多く、北条時政の制札(国重要文化財)、男女神像・楠(府指定)豊臣秀頼寄進の石灯篭などがあります。
玉祖(たまのおや)神社のそばに、ハイキングに訪れる人たちに憩いの場をと、ボランティアの人たちが整備した広場があります。
夕暮れから夜にかけては、美しい街の景色が楽しめる穴場的夜景スポットです。
延喜式神名帳では小社に列せられており、古代の大豪族物部氏の祖神宇摩志摩治命(うましまじのみこと)が祭神です。ツブクミという社名は、物部氏の一族積組連に由来します。境内には、力石が二つ残っています。
もとは玉祖(たまおや)神社の神宮寺で、神社のそばにありました。境内には十三仏の石造があります。
下部には14人の女人の法名が刻んであり、十三仏信仰の女人講によって建立され、年代は作風から桃山時代と考えられます。
明治41年玉祖(たまおや)神社に合祀された式内社御祖神社の跡地で、山王の森と呼ばれています。
ここには天保2年村人たちの伊勢神宮へのおかげ参りの記念に建立された「おかげ灯籠」があります。
祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)・菅原道真。明治7年に玉祖神社に合祀されましたが、戦後、旧地に遷座しました。
境内には、弘化3年(1846)に楽人(ぎょうざん)上人が発願した地蔵石仏があります。
奥の社殿前の狛犬は天保11年に造られたものです。
宝積寺境内に地蔵堂があります。
舟形光背(ふながたこうはい)のある錫杖(しょくじょう)宝珠(ほうじゅ)を持ち、蓮華座(れんげざ)に立つ地蔵菩薩立像です。
衣の衣文線も美しい、よく保存された石仏(室町時代後期)です。
山畑地区の産土神(うぶすなしん)、祭神は佐麻多度大神です。
境内の右手側には末社の山畑神社と山畑八幡宮があります。
境内には、力石あるいはさし石とも呼ばれる石があり、村の青年がこの石を持ち上げて力くらべをしました。
約34分 約2.7km
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