高安山越えにつながる信貴山道・恩智街道と、高安山裾野(高安・恩智地区)を南北に走る東高野街道を巡る散策コースです。
※信貴山道
教興寺の四つ辻を起点に、権現社前を通って信貴山までの山越えの道は、丁石が建てられている参詣道として、市内ではここだけです。
信貴山信仰が盛んであったことを物語る丁石の中には、灯明を入れる火袋を持った立派なものが多く、信貴山の宿坊千手院の鳥居の下の四十二丁石が終点です。
※恩智街道
恩智神社の西の大鳥居付近を起点に、府道柏村南本町線の東詰(柏村橋交差点)から曙川、安中診療所前交差点(八尾街道交差)を通り、JR「八尾」駅までの街道でした。
信貴山や善光寺参りの人達でにぎわった参詣道でもありました。
※東高野街道
京都から高野山参りをする東側の街道で、俗に京街道・高野道といわれました。伝えによると、白河法皇が弘法大師300年遠忌に参拝のとき、河内石川の安助上人が開いたといわれます。
京都と高野山を結ぶ参拝路で、平安時代から鎌倉時代にかけては歴代天皇、諸公家たちが往来し、南北朝時代には京都と南朝方軍勢の出合い道であり、戦国時代には畠山一族、三好一族などの合戦の通路となりました。
約91分 約7.3km
※見物時間、休憩、及び直売所・施設・お店などの時間は含まれておりません。
※坂道の負荷時間は含んでいません。
※1分/80mを基準としています。
約11分 約0.9km
東高野街道の教興寺の四つ辻を起点に、教興寺・権現社前を通って信貴山までの山越えの道です。
四つ辻には、市内最古の道標(宝永5年:1708)と、元治元年の道標があり何れも信貴山案内のものです。
この辻の寺川家の宝篋印塔(ほうきょういんとう)には、「天下泰平、五穀成熟」の文字が彫られています。
信貴山信仰の人達が、自分達の安心立命だけでなく、広くみんなの平和と豊かなくらしをも願っていたことをうかがうことができます。
約3分 約0.3km
京都と高野山を結ぶ参詣路(東高野街道)の一里塚は、その里程を示すものとして造られましたが、現在富田林市の錦織にだけ残っています。
垣内一理塚には松が1本植えられており、現在も地元では「一里松」と呼ばれています。
本来一里塚は二基一対で、東塚と西塚跡周辺には「一里松」という小字名が残っています。
西塚跡には塚はなく、文化7年(1810)の銘を持つ法華塔が建っています。
約5分 約0.4km
聖徳太子が物部守屋(もののべのもりや)を討った時、秦河勝(はたのかわかつ)に建立させたと伝えられ、俗に薮寺ともいわれています。
鎌倉時代、西大寺叡尊(えいそん)によって復興され、文永弘安の役には蒙古降伏の大祈祷が行われました。
永禄5年(1562)河内国守護畠山高政と三好義興(よしおき)、松永久秀(ひさひで)との教興寺合戦により全焼、江戸時代浄厳和尚によって再興されましたが明治18年の台風で本堂が倒れ旧客殿を仮本堂としています。
河内西国巡礼三十三か所:十六番です。
約5分 約0.4km
旧庄屋坂本家の門前にあります。
江戸時代に幕府や領主からの年貢の免定を初め、禁止の条項、様々な法令を記したものなどが揚げられ、明治6年(1873)まで使用されていました。
市内ではこれが唯一のものです。
約1分 約0.1km
黒谷地区の氏神で、熊野神社とも呼ばれています。
明治5年(1872)に教興寺村の天照大神(あまてらすおおみかみ)高座(たかくら)神社に合祀されましたが、今はもどっています。
信貴山道が神社の南側を通り、入口傍に六丁石が残っています。
境内に力石が4個置かれています。
約1分 約0.1km
東高野街道の教興寺の四つ辻を起点に、教興寺・権現社前を通って信貴山までの山越えの道です。
丁石が建てられている参詣道として、市内ではここだけです。
往時、信貴山信仰が盛んであったことを物語る丁石の中には、灯明を入れる火袋を持った立派なものが多く、信貴山の宿坊千手院の鳥居の下の四十二丁石が終点です。
今は、ここから信貴山へ登る古道はほとんど失われています。
教興寺字弁天山(きょうこうじあざべんてんやま)にあり、祭神は市杵島姫大神(いちきしまひめおおかみ)といわれています。
江戸時代から岩屋弁財天として名高く、神体は木彫りの極彩色の弁財天像でしたが、明治の初めの神仏分離のあとは、教興寺の本堂に安置されています。
教興寺字弁天山の山腹にあり、もと春日戸神(かすかべのかみ)と称したといわれます。
貞観元年(859)1月には従五位上を授けられています。
神殿は高所にある巨岩の窟の中に有り、傍に白飯(しらいい)の滝があります。
もとは教興寺の塔頭。
山門の寿福山の扁額(へんがく)は隠元禅師(いんげんぜんし)の筆です。
ここからは大阪平野が一望でき、また境内には横穴式古墳があり、春は桜の名所として名高いところです。
河内西国巡礼三十三か所:十四番です。
飛鳥時代に本田善光が建立したと伝えられています。
毎年4・9月には、お通夜行事が行われ、夜明けと共に本尊の御開帳があります。
府天然記念物の大楠があります。
河内西国巡礼三十三か所:十三番です。
行基(ぎょうき)菩薩がつくった河内七墓の一つで、垣内・教興寺・黒谷・郡川・服部川・山畑の墓地です。
戦国時代の小五輪塔、江戸時代の板碑などが多く残っています。
高台には、鎌倉様式の大きな五輪塔(高さ2m超)が建立されています。
豊かな自然に囲まれたアウトドア・野外活動ができる施設です。
キャンプ場では宿泊キャンプ他、日帰りでバーベキューや野外炊さんなどが楽しめます。
体育館や研修室を使ってスポーツや文化活動を楽しむこともできます。
安養寺裏山の通称垣内山のすぐ裏手の山裾から大正10年(1921)風雨のため山崩れが起こり、その赤土露出部より流水紋銅鐸が発見されました。銅鐸は現在東京博物館にあり、その拓本が当寺にあります。
約25分 約2.0km
天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀っていましたが、枚岡神社に遷座の後は、五世の孫大御食津彦命(おおみけつひこのみこと)と大御食津姫命(おおみけつひめのみこと)を祀っています。
河内二の宮で元春日と称されています。
神社は天王の森にありましたが、恩智城を築いた時、現在の場所へ移したと伝えられています。11月の「卯辰祭供饌(うたつさいきょうせん)行事」は市の無形民俗文化財に指定されています。
また8月の夏祭りでは、太鼓台・神輿が133段の階段を勇壮に駆け上がる様が河内の名物のひとつとなっています。
約1分 約0.1km
元は恩智神社の神宮寺として神社の境内にあり、不動明王像を本尊とします。
「木造十一面観音立像」は国の重要文化財、「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)不動明王坐像」は府の指定文化財に指定されています。
その他に慈雲尊者(じうんそんじゃ)の裏書のある「絹本着色釈迦十六善神(ぜんしん」像」など多くの文化財が寺に伝わっています。
また、内庭は僧愛石の作と伝えられています。
河内西国巡礼三十三か所:十二番です。
法立寺の下にある辻地蔵堂にあります。
花崗岩に地蔵立像を半肉彫、美しく優雅な像容です。
永禄12年(1699)地蔵講の人々が造立されました。
また、この永禄地蔵堂内に元和4年(1618)の線刻地蔵があります。
神宮寺小太郎は当地の豪族で、神宮寺城を構え恩智左近満一とともに楠木正成に属し、その八臣の一人です。
正成湊川で戦死後は、その子正行に従い四條畷に出陣して討死し、そのとき北朝方により神宮寺城も落ちました。
行基(ぎょうき)菩薩が作った河内七墓の一つで、神宮寺・恩智・法善寺などの墓地です。
入口には戦国~江戸の一石五輪塔が無数にあります。
鎌倉時代の大五輪塔や石造層塔・十三仏碑(永禄元年)などがあって歴史を物語っています。
約17分 約1.4km
「常世岐姫(とこよきひめ)神社」ともいいますが、地元では八王子神社として親しまれています。
宝亀7年(776)の夏、河内国大県郡(かわちのくにおおがたぐん)の人で正六位上、赤染人足(あかぞめのひとたり)ら13人に常世連(とこよのむらじ)の姓(かばね)が与えられ、その祖神を祀ったものであるといわれています。
赤染とは茜染のことで、このあたりの人々が茜染を行っていたことがわかります。
今は安産の神として人々の信仰を集めています。
約8分 約0.7km
名前の由来はわかりませんが、地元恩智の有志が結集して菩提追善のため、彼岸の中日に建立したものです。
舟形光背(ふながたこうはい)をつくり、蓮華座(れんげざ)の上に立つ地蔵ですが、像容は右手をあげて、施無畏印(せむいいん)、左手を下げて与願印(よがんいん)を結び、また螺髪(らほつ)のあるところから阿弥陀如来像です。
頭光背には放射光を線刻しています。
体部の肉づけもよく、面貎は穏やかで、姿形が優れています。
約2分 約0.1km
恩智左近満一(みつかず)は、恩智神社の社家の出で、この地の豪族として恩智城を築き、楠木正成に味方しました。
湊川の戦いの後は、その子正行を助けて南朝を守りましたが、延元2年(1337)に熱病または戦いのため、急死したと伝えられています。
かたわらにある16基の墓碑は、明治10年(1877)の西南戦争に官軍として従軍し、戦死した中河内近在の人々の墓です。
約2分 約0.1km
ここは、東高野街道と恩智街道の交点であり、二本の道標があります。
恩智街道はここから曙川を通って、JR八尾駅までの道です。
明治22年(1889)大阪鉄道(関西本線)の八尾停車場が開設されると、この街道の通行者が多くなり、なかでも大阪からの信貴山参りの人達がこの道を利用したため、大正時代には荷車に加えて自動車が往来するほどにぎわった道です。
約1分 約0.1km
街道交点の東に恩智神社大鳥居があり、そのすぐ東に自然石のままの「目ナシ地蔵」があります。
珍しい三角おむすび形をした地蔵です。
別名、見付地蔵とも呼ばれています。
自然石をそのまま地蔵としたもので像容は刻まれていません。
南側の高台は中世、恩智左近満一が自然の高地を利用して恩智城を築いたところで、その見付石を地蔵として祀ったものだと思われます。
約0分 約0.0km
ここは、江戸中期に来福寺として小さなお堂があったところで、明治39年(1906)に、現在地より東南200m生駒山系の中腹にあった恩覚寺と合併し、来恩寺と称するようになりました。
来福寺(浄土宗)・恩覚寺(真言宗)の合併の名残として、本尊の観音菩薩像の脇に阿弥陀菩薩と弘法大師像が安置されています。
河内西国巡礼三十三か所:十一番です。
約4分 約0.3km
付近一帯は府下でも有名な弥生時代の遺跡で、古くから、梅原末治氏など著名な考古学者たちが調査を行っています。
縄文時代から弥生時代の土器や石器などの遺物が多く出土しており、弥生時代中期を中心とした集落が広がっていたと考えられます。
恩智遺跡の範囲のうち、恩智神社のお旅所である「天王の森」のあたりを中心に南北20m、東西50mの範囲が史跡指定されています。(府指定史跡)
約5分 約0.4km
約86分 約6.9km
※見物時間、休憩、及び直売所・施設・お店などの時間は含まれておりません。
※坂道の負荷時間は含んでいません。
※1分/80mを基準としています。
約11分 約0.9km
東高野街道の教興寺の四つ辻を起点に、教興寺・権現社前を通って信貴山までの山越えの道です。
四つ辻には、市内最古の道標(宝永5年:1708)と、元治元年の道標があり何れも信貴山案内のものです。
この辻の寺川家の宝篋印塔(ほうきょういんとう)には、「天下泰平、五穀成熟」の文字が彫られています。
信貴山信仰の人達が、自分達の安心立命だけでなく、広くみんなの平和と豊かなくらしをも願っていたことをうかがうことができます。
約3分 約0.3km
京都と高野山を結ぶ参詣路(東高野街道)の一里塚は、その里程を示すものとして造られましたが、現在富田林市の錦織にだけ残っています。垣内一理塚には松が1本植えられており、現在も地元では「一里松」と呼ばれています。本来一里塚は二基一対で、東塚と西塚跡周辺には「一里松」という小字名が残っています。西塚跡には塚はなく、文化7年(1810)の銘を持つ法華塔が建っています。(市指定史跡)
約5分 約0.4km
聖徳太子が物部守屋(もののべのもりや)を討った時、秦河勝(はたのかわかつ)に建立させたと伝えられ、俗に薮寺ともいわれています。
鎌倉時代、西大寺叡尊(えいそん)によって復興され、文永弘安の役には蒙古降伏の大祈祷が行われました。
永禄5年(1562)河内国守護畠山高政と三好義興(よしおき)、松永久秀(ひさひで)との教興寺合戦により全焼、江戸時代浄厳和尚によって再興されましたが明治18年の台風で本堂が倒れ旧客殿を仮本堂としています。
河内西国巡礼三十三か所:十六番です。
約5分 約0.4km
旧庄屋坂本家の門前にあります。
江戸時代に幕府や領主などからの御達しやお触れ書きなどを板に写して、こうした高い所に揚げて示したからこれを高札といい、その場所が高札場といわれました。
年貢の免定を初め、禁止の条項とか、色々の法令を記したものなどが揚げられ、明治6年(1873)まで使用されました。
市内ではこれが唯一のものです。
約1分 約0.1km
黒谷地区の氏神で、熊野神社とも呼ばれています。
明治5年(1872)に教興寺村の天照大神(あまてらすおおみかみ)高座(たかくら)神社に合祀されましたが、今はもどっています。
信貴山道が神社の南側を通り、入口傍に六丁石が残っています。境内に力石が4個置かれています。
約1分 約0.1km
東高野街道の教興寺の四つ辻を起点に、教興寺・権現社前を通って信貴山までの山越えの道です。
丁石が建てられている参詣道として、市内ではここだけです。
往時、信貴山信仰が盛んであったことを物語る丁石の中には、灯明を入れる火袋を持った立派なものが多く、信貴山の宿坊千手院の鳥居の下の四十二丁石が終点です。
今は、ここから信貴山へ登る古道はほとんど失われています。
教興寺字弁天山(きょうこうじあざべんてんやま)にあり、祭神は市杵島姫大神(いちきしまひめおおかみ)といわれています。江戸時代から岩屋弁財天として名高く、神体は木彫りの極彩色の弁財天像でしたが、明治の初めの神仏分離のあとは、教興寺の本堂に安置されています。
教興寺字弁天山の山腹にあり、もと春日戸神(かすかべのかみ)と称したといわれます。貞観元年(859)一月には従五位上を授けられています。神殿は高所にある巨岩の窟の中に有り、傍に白飯(しらいい)の滝があります。
もとは教興寺の塔頭。山門の寿福山の扁額(へんがく)は隠元禅師(いんげんぜんし)の筆です。ここからは大阪平野が一望でき、また境内には横穴式古墳があり、春は桜の名所として名高いところです。河内西国巡礼三十三か所:十四番です。
行基(ぎょうき)菩薩がつくった河内七墓の一つで、垣内・教興寺・黒谷・郡川・服部川・山畑の墓地です。戦国時代の小五輪塔、江戸時代の板碑などが多く残っています。高台には、鎌倉様式の大きな五輪塔(高さ2m超)が建立されています。
豊かな自然に囲まれたアウトドア・野外活動ができる施設。キャンプ場では宿泊キャンプ他、日帰りでバーベキューや野外炊さんなどが楽しめます。体育館や研修室を使ってスポーツや文化活動を楽しむこともできます。
安養寺裏山の通称垣内山のすぐ裏手の山裾から大正10年(1921)風雨のため山崩れが起こり、その赤土露出部より流水紋銅鐸が発見されました。銅鐸は現在東京博物館にあり、その拓本が当寺にあります。
約36分 約2.8km
天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀っていましたが、枚岡神社に遷座の後は、五世の孫大御食津彦命(おおみけつひこのみこと)と大御食津姫命(おおみけつひめのみこと)を祀っています。
河内二の宮で元春日と称されています。
神社は天王の森にありましたが、恩智城を築いた時、現在の場所へ移したと伝えられています。
11月の「卯辰祭供饌(うたつさいきょうせん)行事」は市の無形民俗文化財に指定されています。
また8月の夏祭りでは、太鼓台・神輿が133段の階段を勇壮に駆け上がる様が河内の名物のひとつとなっています。
約1分 約0.1km
元は恩智神社の神宮寺として神社の境内にあり、不動明王像を本尊とします。
「木造十一面観音立像」は国の重要文化財、「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)不動明王坐像」は府の指定文化財に指定されています。
その他に慈雲尊者(じうんそんじゃ)の裏書のある「絹本着色釈迦十六善神(ぜんしん」像」など多くの文化財が寺に伝わっています。
また、内庭は僧愛石の作と伝えられています。
河内西国巡礼三十三か所:十二番です。
約9分 約0.7km
名前の由来はわかりませんが、地元恩智の有志が結集して菩提追善のため、彼岸の中日に建立したものです。
舟形光背(ふながたこうはい)をつくり、蓮華座(れんげざ)の上に立つ地蔵ですが、像容は右手をあげて、施無畏印(せむいいん)、左手を下げて与願印(よがんいん)を結び、また螺髪(らほつ)のあるところから阿弥陀如来像です。
頭光背には放射光を線刻しています。
体部の肉づけもよく、面貎は穏やかで、姿形が優れています。
約2分 約0.2km
恩智左近満一(みつかず)は、恩智神社の社家の出で、この地の豪族として恩智城を築き、楠木正成に味方しました。
湊川の戦いの後は、その子正行を助けて南朝を守りましたが、延元2年(1337)に熱病または戦いのため、急死したと伝えられています。
かたわらにある16基の墓碑は、明治10年(1877)の西南戦争に官軍として従軍し、戦死した中河内近在の人々の墓です。
約2分 約0.1km
ここは、東高野街道と恩智街道の交点であり、二本の道標があります。
恩智街道はここから曙川を通って、JR八尾駅までの道です。
明治22年(1889)大阪鉄道(関西本線)の八尾停車場が開設されると、この街道の通行者が多くなり、なかでも大阪からの信貴山参りの人達がこの道を利用したため、大正時代には荷車に加えて自動車が往来するほどにぎわった道です。
約1分 約0.1km
街道交点の東に恩智神社大鳥居があり、そのすぐ東に自然石のままの「目ナシ地蔵」があります。
珍しい三角おむすび形をした地蔵です。
別名、見付地蔵とも呼ばれています。
自然石をそのまま地蔵としたもので像容は刻まれていません。
南側の高台は中世、恩智左近満一が自然の高地を利用して恩智城を築いたところで、その見付石を地蔵として祀ったものだと思われます。
約0分 約0.0km
ここは、江戸中期に来福寺として小さなお堂があったところで、明治39年(1906)に、現在地より東南200m生駒山系の中腹にあった恩覚寺と合併し、来恩寺と称するようになりました。
来福寺(浄土宗)・恩覚寺(真言宗)の合併の名残として、本尊の観音菩薩像の脇に阿弥陀菩薩と弘法大師像が安置されています。
河内西国巡礼三十三か所:十一番です。
約4分 約0.3km
付近一帯は府下でも有名な弥生時代の遺跡で、古くから、梅原末治氏など著名な考古学者たちが調査を行っています。
縄文時代から弥生時代の土器や石器などの遺物が多く出土しており、弥生時代中期を中心とした集落が広がっていたと考えられます。
恩智遺跡の範囲のうち、恩智神社のお旅所である「天王の森」のあたりを中心に南北20m、東西50mの範囲が史跡指定されています。
(府指定史跡)
約5分 約0.4km
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