平安時代の六歌仙の一人「在原業平(ありわらのなりひら)」の恋物語ゆかりの地、十三街道を訪ねます。
※在原業平と十三街道
在原業平は、平安時代の歌人で、六歌仙の一人としてその名を残す人物です。
容姿端麗で、情熱的な和歌の名手であったといわれ、男女の恋愛にまつわる言い伝えが各所で残っています。
八尾市では、市内東部の高安地区に「業平の高安通い」として、はかない恋物語の言い伝えが残っており、業平が神立辻の茶屋「福屋」の娘(うめの)に会うために通った大和と河内をむすぶ十三峠の道が十三街道です。
約106分
約8.5km
※見物時間、休憩、及び直売所・施設・お店などの時間は含まれておりません。
※坂道の負荷時間は含んでいません。
※1分/80mを基準としています。
八尾市内の歴史や伝統文化、文化財を調査研究し、収集保存を図るとともに、展示などを通して広く公開する施設です。
休憩所に「力石」の説明板と力石が置いてあり、北側の畑では河内木綿を栽培しています。
約21分
約1.7km
大阪の玉造から八尾市内北部を通り、神立地区から山道を登り、水呑地蔵尊を経て十三峠に至り、大和へ通じている道です。
この街道は、在原業平や日本の測量地図を作った伊能忠敬、また伴林光平も歩いたと言われています。
写真は、神立共同墓地の道と出会う四辻の北西角に、安政2年に建てられた大坂道の道標です。
約5分
約0.4km
神立地蔵堂(南小路の地蔵)内にあります。
神立集落の中、十三街道を水呑地蔵へ上がる登り口に当るところです。
台座に腰をかけた半跏思惟の地蔵立像です。頭部は後補ですが、江戸時代の造立と考えられます。
この地蔵堂の前に、第一番の石仏があり、ここから水呑地蔵まで、33カ所、66番までの二対組み合わせの石仏が並びます。
約2分
約0.2km
在原業平(ありわらのなりひら)と茶屋娘の恋物語りで名高い十三街道沿いの茶屋辻です。
業平が峠を越え玉祖(たまおや)神社へ参詣の途中、福屋の娘梅野をみそめましたが、ある夜東窓があいていたので中をのぞくと、娘が手づからでめしを食っているので、急に興ざめ逃げ帰りました。
娘は後を追いましたが見あたらず悲しんで渕に身を投げました。
この高安の里では、今でも東窓を忌み、これをあけると娘の縁が遠くなるという言い伝えがあります。
約16分
約1.2km
承和3年(836)、僧壱演(いちえん)がここに地蔵菩薩を安置して堂宇を設けたといわています。
本堂の南側に小祠があり、石地蔵の前に二つのつぼがあります、こんこんと清水がわいていて、俗に「弘法水」といいます。
弘法大師が山麓から急坂を登って、このすぐ上の十三峠を越える旅人のために祈願して得た霊水といわれています。
飲料水として、また脚気などの諸病にも効験あるといわれ参詣者が絶えません。
この地は桜の名所としても名高いです。
山腹にある水呑地蔵周辺の木々は四季折々の彩り(春はサクラやフジ、秋は紅葉)を楽しませてくれます。
桜の名勝でもあり、花を愛でながらハイキングを楽しむ絶好のコースの一つです。
約8分
約0.6km
大阪玉造から深江、高井田を経て、神立から大和の龍田に越える峠です。
文久3年(1863)8月、大和天誅組の旗上げに際し、大阪薩摩藩に和歌の指導に来ていた伴林光平が、その通知をうけて直ちに脚気の重い足を引きずるようにして、この十三峠を越えて大和五条にかけつけました。
大阪玉造と大和龍田方面とを結ぶ最も重要な街道筋の峠に当る所です。
明和2年の峠の地蔵と天理教小寒さんの碑があります。
約26分
約2.1km
高安十一カ村の氏神で、和銅3年(710)周防国から分霊を勧請したもので、祭神は櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)です。
この地に玉造部の人々が住んでいたので、その祖神をまつったもののようです。
寺宝も多く、北条時政の制札(重文)男女神像(府、重、美)楠(府天然記念物)豊臣秀頼寄進の石灯篭などがあります。
業平のはかない恋物語で、業平が置いていった「ひとよぎりの笛」が、玉祖神社に伝わっています。
弘化2年(1845)教恩寺の住職になりましたが、国典を講じ、和歌を教え、御陵の調査に専念、大阪・河内・大和に門人多く、書画をよく嗜みました。
生前十三街道を通っており、河内の有志がこの墓をたてました。
相模の人で新田義貞の家臣、弓の名人と伝えられ、足利尊氏が四海から大兵を携して東上するや、これを和田岬で拒みました。
後この地の住人となり、今に子孫の本間家があります。
この二基の五輪塔は鎌倉時代に属します。
玉祖(たまのおや)神社のそばに、ハイキングに訪れる人たちに憩いの場をと、ボランティアの人たちが整備した広場があります。
夕暮れから夜にかけては、美しい街の景色が楽しめる穴場的夜景スポットです。
もとは玉祖(たまおや)神社の神宮寺で、神社のそばにありました。境内には十三仏の石造があります。
下部には14人の女人の法名が刻んであり、十三仏信仰の女人講によって建立され、年代は作風から桃山時代と考えられます。
延喜式神名帳では小社に列せられており、古代の大豪族物部氏の祖神宇摩志摩治命(うましまじのみこと)が祭神です。
ツブクミという社名は、物部氏の一族積組連に由来します。
境内には、力石が二つ残っています。
明治41年(1908)玉祖神社に合祀され、「式内御祖神社跡」という碑がのこされました。
小字に「おかげ灯籠」があります。
天保2年(1831)村人たちの伊勢神宮へのおかげ参りの記念に建立されたものです。
祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)・菅原道真。明治7年に玉祖神社に合祀されましたが、戦後、旧地に遷座しました。
境内には、弘化3年(1846)に「楽人(ぎょうざん)上人」が発願した地蔵石仏があります。
奥の社殿前の狛犬は天保11年(1840)に造られたものです。
宝積寺境内に地蔵堂があります。舟形光背(ふながたこうはい)をつくり、蓮華座(れんげざ)に立つ錫杖(しょくじょう)宝珠(ほうじゅ)を持つ地蔵立像です。円光背があり、衣の衣文線も美しい、よく保存された石仏(室町時代後期)です。
山畑地区の産土神(うぶすなしん)、祭神は佐麻多度大神です。
境内の右手側には末社の山畑神社と山畑八幡宮があります。
境内には、力石あるいはさし石とも呼ばれる石があり、村の青年がこの石を持ち上げて力くらべをしました。
約28分
約2.3km